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「伊勢白粉」の製造頒布とその推移


 「伊勢白粉(おしろい)」って、御存知でしょうか。そうです。文字どおり化粧品のオシロイのことなのです。その化粧品の原料に水銀が使われていたと聞くと、意外に思われる方がみえるかもしれません。
 多気郡勢和村(現多伎町)に丹生という所がありますが、ここは古代から水銀を産出する土地として知られていました。松阪市の射和は、この丹生の水銀の中継ぎを行い、またそれを原料にして軽粉(けいふん)、つまり白粉を製造して発展した所です。その製造法は、水銀に赤土・食塩などを水でこねたものを約600度で四時間程熱して、「ほっつき」という蓋についた白い粉を払い落とすというものです。
 射和の軽粉製造業が最盛期を迎えるのは、室町時代から戦国時代にかけての時期です。当時、釜元と言われる製造場が八三か所もあったそうです。また、中世には「白粉座」という同業者組合のようなものも組織されていました。
 ところで、このような繁栄の背景には、伊勢御師の活躍を無視することはできないでしょう。伊勢御師は全国各地を回って神宮の御札を配りましたが、その際、伊勢からのお土産として伊勢暦や伊勢白粉も一緒に配ったのです。これが伊勢白粉の名が広められた一つの要因ではないか、と思われます。
 中世の終わりごろの軽粉業の繁栄も、江戸時代になって丹生の水銀の産出量が急に減り、また中国から安い鉛性の白粉が入るようになると、多少の衰えを見せ始めます。ところが、軽粉は、やがて化粧品としてよりも梅毒・シラミの特効薬としての用途の方に比重を傾け出し、また新しい需要が増えたりもしました。
 江戸時代の射和と言えば、松坂と並ぶ江戸店持ちの豪商をたくさん出した所として、あるいは、射和文庫の創設者竹川竹斎などを生んだ所として有名でありますが、その経済的にも文化的にも恵まれた土地柄は古い時代からのものだったと言えるのではないでしょうか。
 明治以降になると、軽粉業も化学薬品に押され気味となり、昭和28年(1953)には最後の釜元が閉鎖されました。
 なお、軽粉の製造に使われたいろいろな道具は、現在「松阪歴史民俗資料館」に保存されており、その模様を今に伝えてくれています。

(平成2年12月 石河智子)

丹生水銀鉱と軽粉製造道具(松阪市立歴史民俗資料館蔵)

丹生水銀鉱と軽粉製造道具(松阪市立歴史民俗資料館蔵)

参考文献

松阪市秘書対話課『松阪開府400年史』 昭和63年

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