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戦国時代、三重の各地に「公界」


 「自由」という言葉を知らない人はいないと思います。戦国時代の堺(現大阪府)を「自由都市」と呼ぶことがある、ということを御存知の人も多いでしょう。けれど、戦国時代の「自由」とは、現在と違って、その当時の身分制などによる束縛から解放されるというものです(最近では、誤解を避けるため、「自治都市」という用語を用いるようになりました)。具体的に言えば、戦国大名や荘園領主がかける税を免除されたり、主従制に反することなどの罪から免れたりするということであり、当時、「無縁」という言葉が使われていました。そして、その「無縁」が保障される場所を「公界(くがい)」と表現することが多かったようです。
 三重県域にも、この「公界」がたくさんありました。最も有名なのが宇治と山田で、共に年寄衆による自治が行われていました。特に、山田の年寄衆は「山田三方」(山田は須原・坂・岩淵の三方に分かれており、三方からそれぞれ代表が出て会合し、衆議していたのが語源のようです)と呼ばれ、三つの花押を並べた形の印は、「公界の印判」と呼ぶにふさわしいものでした。 神宮の港 として発達してきた大湊も、経済的基礎を確立させ、会合(えごう)衆による自治が行われており、「大湊公界」という署名が残っています。また、禁裏御料所であった桑名も「十楽の津」と言われ、自由な商売を認めた都市で、戦国大名の介入を許しませんでした。
 このほか、松坂も自由な商取引が認められ、科(とが)人の走入りの場でありましたし、外宮の権禰宜であった度会氏の氏寺として建立された光明寺(現伊勢市域に所在)も「無縁」の寺だったようで、評定衆によって経営されていました。また、熊野の北山谷も無年貢の地だったと言われていることや、検地に激しく抵抗したこと、山林が「公界」となる例が多いことなどを考えると、「公界」という言葉こそ用いられていませんが、実質的には「公界」だったと言えるのではないでしょうか。
 このように、数多く存在した「公界」も、信長や秀吉による‘天下統一‘が進むにつれて、圧倒的な武力の前に屈服せざるを得ませんでした。宇治や山田の年寄衆は江戸時代になってからも存続していますが、それは戦国時代に「公界」として自負を持っていた年寄衆とは随分違ったものだったでしょう。

(平成2年2月 鈴木えりも)

山田三方会合の三ツ判(『三重県史』)

山田三方会合の三ツ判(『三重県史』)

「大湊公界」の文書(伊勢市大湊町振興会蔵)

「大湊公界」の文書(伊勢市大湊町振興会蔵)

参考文献

『宇治山田市史』 昭和4年
網野善彦『無縁・公界・楽』平凡社選書 昭和53年
三鬼清一郎『鉄砲とその時代』教育社歴史新書 昭和56年
『三重県史』資料編(近世1)平成五年

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