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斎王大伯皇女と弟大津皇子


 斎宮は、伊勢神宮に奉仕した斎王が居た古代の役所です。斎王は、天 皇の即位ごとに選定される制度でありましたが、この制度が確立されたのは 、天武天皇の内親王、大伯皇女(おおくのひめみこ)が斎王に任命されてか らだといわれています。今日は、この大伯皇女と弟大津皇子のお話をします。
 大伯皇女が斎王の時に詠んだ和歌が「万葉集」にあります。

   わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に 吾が立ち濡れし
   二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ

 これは、大伯皇女に会いにきた弟大津皇子を奈良に見送る歌で、幼くして母を亡くした姉と弟の親愛の情がうかがわれます。この大津皇子については天武天皇逝去後の皇位継承をめぐる事件があり、古代史上有名です。
 天武天皇には、太田皇女(おおたのひめみこ)との間に大伯皇女とその弟の大津皇子が、そして後の持統天皇となるう野讃良(うののさらら)皇后との間に草壁皇子という子供がありました。天武天皇の後の皇位の継承にあたっては、草壁皇子が最も有力な候補であり、年下である大津皇子はその次の候補でした。しかし人物的には大津皇子の方が優れていたようで、『日本書記』や『懐風藻』によると、風貌が大きく逞しく、文武両道に優れ、人望も厚かったということです。天武天皇は大津皇子の才能と人望を高く評価し、政治に参加させていました。
 草壁皇子の天皇即位を願う母のう野讃良皇后にとって大津皇子は最も怖い存在であり、わが子の将来のためには大津皇子を早いうちに排除する必要がありました。天武15年(686)9月に天武天皇が崩御すると、う野讃良皇后は持統天皇となり、草壁皇子は皇太子に留まりました。
 そうした状況の中で、10月2日、大津皇子は捕らわれこの世を去ったのでした。24年の生涯でした。弟の死後、大伯皇女は斎王の任を解かれて都に戻りましたが、亡き弟をしのびつつ、さみしく暮らしたのでしょう。
 また、平安時代の『薬師寺縁起』という文献に拠りますと、大伯皇女は伊賀国名張郡に天武天皇の供養のために供養のために「昌福寺」というお寺を建立した記録があります。この寺院が、天武天皇の供養のために建立されたというのは表向きの理由で、実は悲運の大津皇子の冥福を祈るためだとする説もあります。なお、この昌福寺は、県指定の史跡となっている名張市の夏見廃寺ではないか、とも考えられています。
※「うののさらら」の「う」は盧に鳥と書きます。

(平成元年9月 多上幸子)

系図

系図

参考文献

中川ただもと「万葉集と斎宮ー大伯皇女と大津皇子の悲劇」  『斎宮と文学』昭和60年
名張市教育委員会『夏見廃寺』昭和63年
なお、夏見廃寺は平成元年11月、国の史跡に答申された。

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