トップページ  > 県史あれこれ > 伊賀の東大寺領、黒田荘と玉滝荘

伊賀の東大寺領、黒田荘と玉滝荘


 三重県の県域が旧の伊賀・伊勢・志摩と紀伊の牟婁郡の一部からなっていることは、皆さんよく御存知のことと思いますが、今日は、その中の伊賀国の古代から中世にかけてのお話です。
 この時期の伊賀国の一つの特色として、大和国(現奈良県)にあった総国分寺・東大寺の荘園が非常に発達したということです。とりわけ、現在の名張市を中心とする黒田荘(くろだのしょう)と、阿山町域にあった玉滝荘(たまたきのしょう)が有名ですが、これは、現在も奈良の東大寺に保存されている夥しい量の古文書・記録類から、その実態を知ることができます。
 律令制度が十分機能を果たしていた奈良時代、公地公民の原則により土地は国家が支配するものでしたが、この制度が次第に崩れていくと、中央朝廷の貴族や大寺社は積極的に土地の開墾に乗り出し、私有地が全国的に広がっていきました。これら国家の支配から離れ、有力貴族や寺社が開発・経営する土地を荘園と呼びます。
 伊賀南部の黒田荘は、藤原実遠(さねとお)の支配していた領地を中心にして拡大し、のち東大寺の支配するところとなります。
 一方、北部の玉滝荘は、天徳2年(958)に橘元実(もとざね)が以前から玉滝内にあった先祖の墓地の山を東大寺に寄進したことから始まります。この場所が現在のどこに当たるのかということを確かめることは非常に困難ですが、おそらく、現在の阿山町の玉滝のほぼ全域にわたる範囲ではなかったかと推測されています。初めは、「玉滝杣(そま)」と呼ばれ、東大寺は寺の修理などに必要な材木の伐採・利用のための土地として、翌年には中央朝廷に働き掛けて、東大寺固有の土地として、他の者が立ち入ることを禁止することを政府に認めさせています。こののち、寺の勢力を背景に玉滝周辺の内保・湯船・鞆田・真木山(槙山)までをも取り込み、広大な地域を獲得していきます。
 ところが、平安時代後期になると、関東から伊勢、伊賀に勢力を植え付けつつあった平氏により、鞆田荘が横領され、東大寺と平氏の間で土地をめぐる争いが続きます。
 治承・寿永の内乱で平氏が滅亡して争いは終結しますが、もはや時代は武士の世となり、東大寺の支配力も、現地から成長してきた武士の力を押さえることはできなくなっていきます。中でも、服部持法(じほう)という武士は、伊賀に勢力を張り「名誉の悪党」と呼ばれ、その名を馳せることとなります。
 こうして、室町・戦国時代を通して、伊賀は名目上は東大寺の領地として、しかし、現実には現地の土豪たちの連合勢力により支配されるという状態でしたが、天正9年(1581)織田信長の伊賀攻略によって壊滅し、荘園制も終焉を告げます。

(平成6年1月 阪本正彦)

東大寺所蔵黒田荘関係文書(伊賀史談会「史料絵葉書」中川甫氏蔵)

東大寺所蔵黒田荘関係文書(伊賀史談会「史料絵葉書」中川甫氏蔵)

参考文献

早瀬保太郎『伊賀史概説』上巻 昭和48年

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る