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伊賀を通った奈良時代の幹線道路


 皆さんは、東海道と言えば、どのようなことを連想されるでしょうか。
 江戸時代に整備された京と江戸を結ぶ五街道の一つ。また、歌川広重が描いた「東海道五十三次」の版画などと、江戸時代の旅と宿場のイメージが強い方が多いと思います。
 さて、今から1,000年以上も前の、まだ都が大和の飛鳥や奈良にあったころ、東海道と言えば交通路をさすと同時に、地方の行政区画をさす言葉でもあり、また、伊勢国には、東海道方面に対する、都の軍事拠点としての鈴鹿関が置かれていました。交通路としての東海道は、滋賀県・近江国から鈴鹿峠を越え伊勢国に入り、関・亀山を経て、四日市・桑名を通り、愛知県・尾張国へ通じる、現在の国道1号のルートがこれに当たることはよく知られています。しかし、奈良時代には、都から東への幹線道路は、大和から木津川を遡り、伊賀国を経て加太の峠を越え伊勢に入る、一般に大和街道と呼ばれる道筋で、おそらく伊勢神宮に下る奈良時代の斎王たちも、この道を通ったと思われます。
 延暦13年(794)に、平安京に都が遷されると、大和から伊賀を通る東海道を変更して、新道開拓の計画が立てられ、平安時代の前期ごろの歴史を記した『日本三代実録』には、仁和2年(886)五月、「近江国新に阿須波道(あすはみち)を通うの利害を検ぜしむ」とあり、6月に「伊勢斎(いつき)内親王、応(まさ)に近江国新道を取り大神宮に入るべし、仍りて伊勢国に下して知らしむ、又、伊賀国の旧路の頓宮を停む、伊賀国に下して知らしむ」と記されており、このことは886年に正式に、近江から鈴鹿峠を越える阿須波道が、官道としての東海道と定められ、天皇の代替わりごとに伊勢神宮に発遣される斎王の群行路も、この新しい道を使うことを定め、大和から伊賀を通る道は停止されたことを示しています。
 そして、同じ年の9月、光孝天皇の皇女・繁子(はんし)内親王は、23代目の伊勢斎王として、近江・垂水頓宮から伊勢・鈴鹿頓宮に至り、鈴鹿峠越えの道を取って、伊勢国多気郡の斎宮へ群行したことが記されています。
 こうして、鈴鹿峠越えの東海道が開かれ、こののち、中世の鎌倉時代には、京都の朝廷と鎌倉の幕府との連絡路として、近世の江戸時代には西国諸大名の参勤交代や、地方からの庶民の伊勢参宮の交通路として整備され、現代に至るまで、関西と関東を結ぶ重要な交通路として発達を遂げることになります。
 秋空の下、往時をしのんで、一度、東海道を歩いてみてはいかがでしょう。

(平成4年10月 阪本正彦)

古代の畿内周辺主要道路と行政区画

古代の畿内周辺主要道路と行政区画

参考文献

『鈴鹿 関町史』上巻 昭和52年

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