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古代の「御食つ国」志摩


 夏休みの終わりごろ、愛知県の人から、子どもの宿題だが、「志摩地方のイメージを示す歴史的な言葉は何か」という問い合わせが県史編さん室にありました。いろいろ調べてみると、一つに「 御食(みけ)つ国(くに)」という言葉があります。そこで、今日は「御食つ国・志摩」についてお話します。
 御存知のとおり、三重県は広く海に面し、海の幸には大変恵まれたところです。中でも、志摩地方は、その種類も豊富で、古代には「御食つ国」、すなわち天皇の食料を献上する国として知られていました。『万葉集』には、大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌で「御食つ国 志摩の海女ならし真熊野(まくまの)の小舟に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ」という歌があります。この歌の意味は「小舟に乗って沖へ漕いでゆくのが見えるが、それは志摩の海女であろう」というもので、「御食つ国」が志摩の枕詞として使われるほどでした。
 また、平城宮跡からは、鰒(あわび)6斤(名錐(なきり)郷)、海松(みる)6斤(船越郷)、海鼠(なまこ)(船越郷)・海藻六斤(和具郷)等が記された木簡が出土しており、志摩国から朝廷に海産物を納めていたことが裏付けられます。さらに、平安時代初期の法律書である『延喜式』には、志摩国に税として鰒や海藻・ところてん・真珠等を納める義務のあることが記されています。
 こうした朝廷への食料の献上は、飛鳥・奈良時代以前にも行われていたようで、『古事記』の中にも「島之速贄(しまのはやにえ)」という言葉が出てきます。この「贄」という言葉も「朝廷(神)に捧げるみやげの魚など」という意味ですが、鳥羽市内の海辺には「贄遺跡」と呼ばれる古代の遺跡があります。開発事業に伴い、昭和47・48年及び60年に発掘調査が実施され、多くの貴重な遺物が発見されました。特に金銅製の帯金具は、極めて身分の高い役人が身に着けていたもので、この地にこういった人物が足を踏み入れていたことを物語っています。それに、国の役所等に納めたとされる「美濃」という地名の刻まれた須恵器(土器)や和同開珎をはじめとした古銭なども出土しており、朝廷への海産物献上に関連する施設が存在した可能性がうかがえるものです。
 このように、志摩地方は朝廷の食料に海産物を納める「御食つ国」として重要な地位を占めていました。志摩国が「御食つ国」となったのも、そこには、自然が育んできた豊富な海の幸があったからです。志摩のイメージは、風光だけでなく、歴史的にも美しい自然の中で保たれてきたようです。

(平成5年9月 藤岡千帆)

平城宮跡出土の志摩国木簡(模造)(斎宮歴史博物館提供)

平城宮跡出土の志摩国木簡(模造)(斎宮歴史博物館提供)

参考文献

松本茂一『鳥羽贄遺跡』鳥羽市教育委員会 昭和50年
松本茂一・南野孝順『贄遺跡第二次発掘調査報告書』鳥羽市教育委員会 昭和62年

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