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伊勢平氏の活躍と忠盛塚伝説


 平氏はもともと関東地方を根拠地とした武士ですが、承平5年(935)の平将門(まさかど)の乱の後、将門を討った平貞盛(さだもり)らが伊勢国に移り住み、その子維衡(ただひら)も伊勢守(いせのかみ)に任じられるなどして、貞盛・維衡・正度(まさのり)と続く一族が伊勢国に定着しました。これが「伊勢平氏」の起こりです。
 正度のあと、子たちも伊勢・伊賀の各地を支配し、伊勢平氏の力を、より強固なものにしました。貞衡(さだひら)は安濃津三郎を名乗り安濃津を、正衡(まさひら)は伊賀北部を、季衡(すえひら)は北勢を治めていましたその中で、正衡の一門が一層勢力を強め、正衡の孫忠盛(ただもり)は検非違使や播磨・伊勢・備前の国守、追捕使(ついぶし)などでの活躍が認められ、武士の中で初めて昇殿を許されることとなります。
 しかし、貴族にとっては、地方の武士が殿上人の仲間入りをするのは承服できず、忠盛を怒らせて宮中で刀を抜かせて罪におとし入れようと策略を練るのです。それが『平家物語』でよく知られている「伊勢平氏はすがめなりけり」の一節です。伊勢産の粗末な素瓶と、斜視であった忠盛とをかけてあざわらったわけですが、忠盛は武力、財力以外にも和歌など宮廷の教養も身につけ、着実に宮廷における平氏の地位を高めました。そして、忠盛の子清盛は太政大臣にまでなりました。
 ところで、現在津市の西、産品地区には「忠盛塚」といわれる小塚があり「史蹟 平氏発祥伝説地」の石柱が建てられています。また、忠盛にまつわる胞衣塚(えなづか)、産湯池(うぶゆいけ)、館跡(やかたあと)などの伝承もあります。これらの歴史的事実を文献で立証することは困難なようで忠盛出生地のことも未だ伝説の域を出ませんが、ただ、古くより伊勢国の重要な地であった安濃津だけに、歴史を大きく動かした平氏との関わりが、いくつかの伝説となったのかもしれません。

(平成元年11月 川合健之)

津市産品にある忠盛塚

津市産品にある忠盛塚

参考文献

高橋昌明『清盛以前−伊勢平氏の興隆−』平凡社選書 昭和59年

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