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若さの勝利、屏風岩の登攀成功


 昭和22年(1947)、旧制神戸(かんべ)中学校(現在の神戸高校)の山岳部メンバーによって、屏風岩の登攀がなされました。屏風岩は、北アルプス穂高(ほだか)岳にある高さ 600メートル、幅 1,500メートルの、ほぼ垂直に近い1枚岩のことです。当時、岩登りをする人達は誰もが、この岩壁の登攀を夢見ていましたが、技術的にとうてい不可能だとされ、巨大な岩壁は人を寄せ付けませんでした。ところが、この登攀の可能性を一枚の写真から見つけ出したのが、当時、神戸中学の教員であり山岳部部長であった石岡繁雄でした。彼は八高、現在の名古屋大学ですが、その山岳部仲間から雪の積もった屏風岩の写真を見せられて、一見、垂直の何の凹凸もない一枚岩には、実は低い木がはえていて、そこに雪が積もるということに気がついたのです 彼は、自ら書いた登攀記の中で、マッターホルンの岸壁がウインパーらによって登られるきっかけとなったのも、まさにこの発見と同じであったと言っています。
 彼は、はじめ八高の仲間とルートを探して4度もアタックを試みたのですが、オーバーハングをどうしても越えることができず失敗に終わりました。オーバーハングとは、岩がつき出して頭の上を覆うようにしている場所のことで、彼は、この巨大なオーバーハングを越えるには投縄しかないと考えました。そこで彼は、そのような神技ができる若い身軽な者を、神戸中学山岳部の中から2名選びました。彼らは、鈴鹿の藤内壁で岩登りの練習に汗を流していたのです。
 その2名、松田と本田、そして石岡の3人のメンバーによるアタックは、7月24日、いよいよ始まりました。文字通りの悪戦苦闘で、足先がやっとかかる岩を足場に1メートル上の木に飛びついたり、投縄を何度も試みたり転落しそうになったりしながら、延々2日間にわたる岩壁との戦いが繰り広げられた後、ついに松田と本田が登り切り、屏風岩は彼らの手に落ちたのです。
 こうして、当時、日本の山岳界最大の関心事であった屏風岩正面ルートの登攀は、彼ら神戸中学校の山岳部員たちによって達成されたのでした。まさに、若さの勝利と言えるでしょう。

(平成元年7月 伊藤由利子)

山岳部員イラスト

山岳部員イラスト

参考文献

石岡繁雄『屏風岩登攀記』中央公論社 昭和55年

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