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悲惨だった三重県の空襲


 今から47年前の昭和16年(1941)12月8日、日本は真珠湾を攻撃して、アメリカと戦争を始めます。そして、早くも翌年の17年4月18日、東京・名古屋・大阪などの大都市が空襲を受けます。それは、ドウリットル中佐に率いられたアメリカ軍のB25 16 機によるものでした。三重県でもこの日、名古屋の爆撃を終えた一機が、現在の木曽岬町の沖合で蛤とりをしていた人々に機銃掃射をしかけ、1 名が負傷を負うという事件がありました。この空襲が、三重県での最初の空襲でした。
 昭和19年7月にサイパン島が陥落すると、日本各地への空襲は頻繁になります。三重県での本格的な空襲は、昭和20年1月14日の伊勢外宮への爆弾投下から始まります。当時の人々にとって、伊勢神宮への爆撃は大変なショックだったらしく、朝日新聞や毎日新聞の全国版にも当時の状況が記事となって載せらています。
 次に県下での主な被害状況を見て見ましょう。
 まず、県下で最初に本格的爆撃を受けた宇治山田市は、以降大きな爆撃を6回ほど受けますが、なかでも7月29日の爆撃はすさまじく、市内の約60%を焼失し、死傷者は 192名にもなりました。
 また、四日市市は県下最大の工業都市であり、海軍の第二燃料廠があったこともあって、6月から7月にかけて、アメリカ軍の重点爆撃地とされます特に、6月18日の被害は大きく、死者 505人、重軽傷 503人、焼けた家は 9,372戸にものぼり、市民は茫然自失の状態だったそうです。
 津市も、四日市市に劣らぬほどの大きな被害を受けました。なかでも、7月28日から29日にかけての空襲は、アメリカ軍が今回の戦争で初めて使用したM47焼夷弾によって、死者 1,239名、負傷者は数千名をだすほどで、市民はほとんど無防備な状態でした。桑名・鈴鹿・松阪などでも空襲の被害があり、経済安定本部の調査では、県下全体の死傷者は 6,500名余りにも達しますが、実際の犠牲者はもっと多かったようです。

(昭和63年7月 山口千代己)

津市の戦災被害状況(太田金典氏提供)

津市の戦災被害状況(太田金典氏提供)

参考文献

『三重県史』資料編 近代2(政治・行政II) 昭和63年
奥住喜重『中小都市空襲』三省堂 昭和63年
津平和のための戦争展実行委員会『津の戦災- 記録と回想- 』   平成元年

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