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昭和初期の鉱山熱と紀州鉱山の発展


 「ゴールドラッシュの波に乗って金鉱山は−−」と言うと、たいていの人はアメリカのことだと思うでしょう。ところが、これは、昭和9年(1943)3月4日の「伊勢新聞」の記事なのです。
 昭和8年から10年にかけて、全国的に鉱山の採掘ブームが起こり、三重県でも、南牟婁郡をはじめ、北牟婁郡や志摩郡などで次々と、金・銀・銅・マンガンなどの試し掘りの許可願いが出され、昭和9年だけで50件以上に上りました。全部が成功した訳ではありませんが、生産額は急激に増え、昭和8年には7年の2倍になり、10年には7年の26倍にもなりました。鉱山で働く人も、昭和5年には1日当たり90人だったのが、8年には 230人、10年には 577人、12年には1千人を超えました。また、昭和初めまでは、伊賀地方を中心とする亜炭が、県内の鉱産物の産額の約半分を占めていました。それが9割以上が銅と変わり、全国でも重要な鉱山地域の一つになったのです。
 こうした鉱山業の発展の中心となったのは、昭和9年から12年にかけて石原産業海運株式会社に買い取られた、南牟婁郡上川、入鹿地方の三和鉱山です。機械化され、大規模に掘り出されるようになり、全国的に不況にも拘わらず、この鉱山は、「鉱夫さんなら娘をやろか、産業戦士の花じゃもの」と歌われるほど景気が好かったのです。
 この上川村楊枝川付近の鉱山の歴史も古く、江戸時代からさかんに採掘されていました。慶長小判に使われたとか、熊野の銅は金が多くふくまれているためオランダが好んで求めたとか言われています。さらに遡って、大宝3年( 703)に紀伊の国から朝廷に献上された銀もこの鉱山のものだ、という説もあるほどです。いつから開発されたのかははっきりしませんが、江戸時代の廃坑や働いていた人達のお墓などが今も残されています。

(昭和63年3月 鈴木えりも)

戦前の紀州鉱山(坪垣内登氏提供)

戦前の紀州鉱山(坪垣内登氏提供)

戦前の紀州鉱山(坪垣内登氏提供)

戦前の紀州鉱山(坪垣内登氏提供)

参考文献

中西卓也「維新前の楊枝川銅山史小攷」『紀和町誌(創刊号)』   紀和町教育委員会 昭和48年
武上千代之丞『奥熊野百年誌』昭和53年
石原産業株式会社『創業35年を回顧して』昭和31年

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