トップページ  > 県史あれこれ > 電信・電話の発達と世界初の無線電話

電信・電話の発達と世界初の無線電話


 10月のカレンダーを見てみますと、10月23日は電信電話記念日と記されています。はじめて横浜と東京の間に電信の架設工事が行われたのが、明治2 年(1869)9月19日で、太陽暦に直すと10月23日となるわけです。そこで、今日は三重県の電信・電話の初期の様子についてお話しします。
 県内で最初に電信局が設置されたのは四日市で、明治9年から通信の取扱いが開始されました。そして、そのすぐあとには、有名な地租改正反対の伊勢暴動が勃発します。県庁の係官は、たびたび津から四日市に出かけて行って、内務省や軍隊と、電報で暴動の対応策についてやりとりしました。しかし、暴動が北勢の方面に及ぶと、この四日市電信局も学校や病院など明治期の新しい施設のひとつとして焼き払われ、県庁の係官は電報を打つため、名古屋にまで出向かなければならなくなったのでした。
 その後、明治15年頃までに、津・桑名・松阪・山田・亀山・鳥羽などにも電信局が設けられ、県内外の行政上の連絡や商品取引等が便利になりました。
 こうした電信に対して、電話の発達はやや遅く、官庁専用電話を除いては明治23年の東京・横浜間の電話交換が最初です。三重県内では、さらに10年遅れて、明治33年から桑名と四日市で電話の交換業務がはじまりました。ちなみにこの時の加入台数は、桑名で88台、四日市で 117台で、きわめて限られたものでありました。それもそのはず、当時の加入登記料が15円、電話使用料が年額48円で、一通話(5分以内)が25銭であり、この頃の米価は一石が約10円ですから、非常に多くの経費がかかったのです。それでも明治の終わりには約20ヵ所の電話局ができ、徐々に広まっていきました。
 最後に、電話に関してもうひとつ、三重県内で歴史的な出来事がありますそれは、大正3年、神島と答志島・鳥羽間で世界最初の無線電話による通話が実用化されたことです。それまでにも符号による無線電信はかなり発達していたのですが、音声をそのまま伝える無線電話は初めてのことであり、発明者の鳥潟右一・横山英太郎・北村政治郎の頭文字をとって、TYK式無線電話と名付けられたものでした。鳥羽駅裏の日和山(ひよりやま)展望台には無線電話発祥記念碑が建てられ、無線電話の歴史のひとこまを今に伝えています。

(昭和63年10月 吉村利男)

世界初の無線電話の交信(朝日新聞昭和44年9月7日版より)

世界初の無線電話の交信(朝日新聞昭和44年9月7日版より)

無線電話発祥地記念碑

無線電話発祥地記念碑

参考文献

日本電信電話公社東海電気通信局『鳥羽・答志島・神島間の無線電話   昭和36年
同『東海電信電話190 年のあゆみ』昭和37年

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る