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明治の模範村・玉滝村の村是調査


 明治30年代に村是(そんぜ)調査が始まります。村是とは、各村の産業や性格の現状を把握し改善方法を定めるというもので、「道徳と経済の調和」を謳って中央報徳会を中心に全国的に進められました。
 三重県で最初にこの村是を定めたのは、滋賀県と境を接する阿山郡玉滝村で、明治35年(1902)のことでした。村是を着々と実行していった玉滝村は模範村と呼ばれ、明治44年には内務大臣の表彰を受けています。全国から注目され、玉滝村を視察に来る人があとをたたず、旅館さえできたそうです。
 村是の内容ですが、耕地の増加や耕作方法の改善はもとより、米の共同販売を実施し、村民の収入を増やしました。現在のように米を国が買い上げてはくれませんので、販売の仕方で収入が左右されたのです。玉滝村では一俵につき一銭という、わずかな手数料で村が販売し、しかも買い手を大阪や伏見などからも募集したので、近くの村よりずっと高く売れました。このほか養蚕をはじめとする副業を奨励して副収入の増加を図り、日露戦争後の不況をのりきって、村是制定後わずか10年で生産額を 2.6倍にしたのです。
 また、教育にも大きく力を入れた結果、小学校への就学率はほぼ 100 パーセントになりましたし、校舎の増築にも村民が競って寄付をします。青年団体を作り、学習会や講話会、農事試験による農事改良など、青年の教育と結集にも力を注いだのです。
 村是の実行は皆の協力なしにできるものではありません。木津慶次郎はじめ、代々の村長が一人一人を説得した努力と、教育に力を入れた方針の正しさが、成功をもたらしたと言えるでしょう。
 村是調査の理念は二宮尊徳に基づくもので、身分の差を認めていたり、最終目標は明治政府の国力増進であるなど、批判される点もないわけではありません。しかし、玉滝村是が玉滝村を豊かにしたことは否定できません。
 玉滝村の中央を通る道は、明治以来一度も幅を広げたことがないそうです車が楽に対向できる道。これは木津慶次郎が、将来大切なのは道だ、と広く作らせたものだそうです。驚くような話ですね。

(平成元年3月 鈴木えりも)

当時の道路修繕(玉滝小学校蔵)

当時の道路修繕(玉滝小学校蔵)

表

参考文献

倉上真琴『模範村玉滝村』 大正2年
『三重県史』資料編 近代3(産業・経済) 昭和63年

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