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就学率50%、明治20年の小学校


 明治19年(1886)4月、小学校令が公布され、小学校は尋常小学校と高等小学校に分かれます。満6歳になると、まず尋常小学校に入学し、義務教育として4年間勉強してから、さらに上の高等小学校に進むように決められました。それ以前の小学校は、上等・下等に分かれていて、半年毎の試験で進級していくようになっていましたが、まだ、義務教育ではなく、小学校が義務教育となったのは、この時からということになります。三重県では、この法令に基づいた小学校が、翌年の明治20年4月に発足します。
 このような新しい小学校制度ができたものの、当時は、義務教育である尋常小学校でさえも、月謝が平均して15銭ほどかかり、上の高等小学校の場合には、さらに高い授業料を払わなければなりませんでした。ちなみに、当時の月謝15銭は、今の金額になおすと1,300 円ほどですが、お金がかかる上、子供を学校にやってしまうと家事の手伝いをさせられなくなることなどから、学校など行かなくてもよいと考える親もあり、その頃の三重県下の小学校就学率は50%前後しかありませんでした。それで、国や県では「子供を学校へやると金もうけがうまくなる」などとPRしたこともあるようです。
 当時の授業内容としては、尋常小学校では、読書、作文、習字、算術、修身などがあり、なかでも修身は、非常に重視されました。また理科、歴史、地理等は、高等小学校で習う科目になっていました。そのほか、今の音楽にあたる授業も行われました。津の養正小学校では、当時まだ珍しいオルガンがあり、子供達の歌声とともに響いてくるオルガンの音色に誘われて、近所の人達が教室の窓の下に集まったというようなエピソードも残っています。また、女子の体操は、足袋と袴、和服にたすきがけというような格好でした。
 この頃から高等小学校での修学旅行も始まり、津のある学校では、高等小学校4年生の男子が、京都の笠置地方へ6日間の修学旅行に出かけました。6日間というと、とても長いようですが、汽車も無い当時では、わらじをはいて歩いて旅行したためです。当然とはいえ、100 年後の今の学校とはかなり違っていたようですね。

(昭和61年4月 伊東由里子)

遊戯風景(『松阪市立第一小学校創立記念誌100周年』より)

遊戯風景(『松阪市立第一小学校創立記念誌100周年』より)

当時の教科書(樋田清砂氏蔵)

当時の教科書(樋田清砂氏蔵)

小学校就学率

小学校就学率

参考文献

三重県教育会『明治大正三重県教育小史』 大正11年
三重県教育委員会『三重県教育史』第一巻 昭和55年
西田善男『三重県における小学校の発達と教員の養成』昭和48年

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