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壬申の乱と古代の伊賀・伊勢


 飛鳥時代に起こった壬申の乱は、天智天皇の死後、その皇位継承をめぐっての争いでしたが、この三重の地と深い関わりがありました。
 天智天皇には、自分とともに政治に参与してきた実弟大海人皇子(おおあまのおうじ)があり、だれもが皇位を継ぐものと思っていました。しかし、天皇には当時21歳になる息子大友皇子があり、大友皇子を太政大臣に任じ後継者としました。このことが内乱を起こす原因となったのです。なお、この大友皇子の生母は、伊賀妥女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)で伊賀国山田郡の郡司の娘と言われています。
 こうした天智天皇の措置に対し、大海人皇子は僧形となって吉野宮に隠棲し、大友皇子が弘文天皇となって、近江宮で政治を司りました。しかし、そのころの我が国は、朝鮮半島での敗退、大津京経営による人民への負担の増大などで、朝廷に対する支持は失われつつありました。
 それを見抜いた大海人皇子は壬申年、西暦 672年、ついに挙兵し、わずか 20人ほどの従者と女官とともに、東国への要所である伊賀・伊勢に向けて吉野を出発しました。『日本書紀』によると、一行はまず伊賀国に入り名張の駅家(うまや)を焼き兵を募りましたが、誰も来ませんでした。大海人皇子は前途に不安を感じ、占うと「天下両分、皇位は我に」と出ました。これで勢いをつけさらに伊賀郡に進み伊賀の駅家を焼き払い、その時、初めて阿拝(あえ)・伊賀郡司らが数百の兵を率いて一行に加わりました。翌25日、積殖(つみえ。現在の伊賀町柘植)で大海人皇子の長男・高市(たけち)皇子と合流し加太(かぶと)越えで鈴鹿の関付近に入りました。そこで伊勢国司の三宅連石床(みやけのむらじいしとこ)らが参加し、500 の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備えました。
 そして翌26日、朝明郡迹太(とほ)川の辺で伊勢神宮のある方角を拝み、戦いの勝利を祈るとともに、朝明の郡家を経て桑名に着きました。吉野を発って三昼夜で約140 キロの行程を進んできたわけです。こうした果敢な進撃で、ついに7月、近江瀬田の戦いを勝ち抜き、弘文天皇は自殺し、この乱は幕を閉じました。
 大海人皇子は天武天皇となり、飛鳥の浄御原宮を営み政治を動かすことになったのです。そして、この戦いに加わった伊勢国司、阿拝郡司らは勢力地盤を固め、募兵に応じなかった名張郡司は弾圧されたようです。ともあれ、古代の天下を分ける戦いに伊賀・伊勢の豪族が大きく関わっていたのでした

(平成元年10月 前田深香)

積殖へ向かう道

積殖へ向かう道

参考文献

直木孝次郎『壬申の乱』塙書房 昭和36年
中貞夫『名張市史』名張市役所 昭和49年

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