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夢を求めて海外移住


 明治18年(1885)の1月27日、神奈川県の港から子ども10人を含む 944人を乗せた船「シティ・オブ・トウキョウ」が、ハワイへ向けて出発しました。これが国が認めた最初のアメリカ移民団でした。この船には三重県からの 13名も乗っており、12日後に無事ホノルルに到着し、大部分の人が砂糖きび畑で働くようになります。
 ハワイに着いた時のようすを、当時の記録から引きますと、「洋服を着ている人はいくらもいない。単衣の着流し、下駄や草履ばき、印ばんてんにもも引き等もある。ホノルルに上陸すると暑さを防ぐために男も女も手ぬぐいでほおかむり−−」とあります。
 ところで、契約の3年間が終わると、900 人余りの人たちはどうしたのでしょうか。日本に帰った人は約200 人にすぎず、そのままハワイに住みついたり、アメリカ本土へ渡ったりしました。帰国するにも旅費がない、という人もかなりいたようです。
 三重県からの北米移民が最も盛んだったのは明治30年から40年にかけてですが、地域的には、志摩町の片田、鈴鹿市の一ノ宮・池田・箕田、それに三重郡の楠町出身者が多く、なかでも志摩の片田からは、たくさんの人が大きな夢を持って出かけ、アメリカの農園や鉱山、あるいは鉄道で働き、力のある者は土地を手に入れて農業経営に乗り出す人も出てきました。
 ところが、日露戦争を境に北米での排日運動が強まってくると、移住の流れは南アメリカに向かうことになり、明治32年の第一回目のペルー移住者 790人を皮切りに、アルゼンチン・ブラジル・パラグアイなどへの移住者が増加します。
 現在、南北アメリカの各地で活躍している三重県人もたくさんおり、フロンティア精神は生き続けているようです。
 先日も三重県史編さん室へ、ペルー移住者の日系三世から、ルーツをたずねる手紙が届き、磯部町役場の協力を得て回答したところです。

(昭和62年1月 松浦 栄)

明治32〜44年の三重県下からの海外渡航人員(主なもの)(『三重県統計書』より)

明治32〜44年の三重県下からの海外渡航人員(主なもの)(『三重県統計書』より)

参考文献

『三重県人北米発展史』三重県海外協会 昭和41年
『三重県人南米発展史』三重県海外協会 昭和52年

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