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死者1千人以上、明治12年のコレラ騒動


 最近、エイズ問題が世界中を騒がせていますが、今日は、明治や大正の頃、三重県で発生した伝染病についてお話ししましょう。
 伝染病の中でも、特に恐ろしいとされているコレラやペスト、天然痘などは、最近ではすっかり影をひそめてしまいました。しかし、明治の頃は一般の人々の伝染病に対する知識は、ごく浅く、その上病院などの医療施設も十分でなく、いったん、伝染病が発生すると、次から次へと伝染していったようです。なかでも、明治12年(1879)に流行したコレラはとてもひどかったようで、三重県内での死者が 1,000人以上に達しました。
 もちろん県でも、コレラ予防のために特別予算を組んで、予防のための心得書、つまり、パンフレットのようなものを町村に配るなど、いろいろ手を尽くしています。テレビやラジオもなく、新聞も今ほど普及していなかった当時のことですから、さぞ大変だったろうと思います。それでも、毎日のように県内各地でコレラ患者の数は増え続けて、県の対策も大がかりなものになっていきました。たとえば、他の県から三重県にやって来る旅行者は、県境の4ヵ所に設けられた検疫所、つまり、コレラにかかっていないかどうかを検査する所ですが、そこで5日間、徹底的に検査されたようです。旅行者は、5日間の足どめに遭ったのですから、今ではちょっと考えられませんね
 人々は、このコレラ騒ぎで、不安な毎日をすごしていました。お寺ではコレラ退治のための法要が行われ、町の薬屋では「コレラはらい」と名付けた薬やコレラよけになるという石炭酸入りの「におい袋」が、飛ぶように売れたということです。当時の新聞は、連日コレラ関係の記事で埋め尽くされ、村役場の掲示板には、毎日のように県下の患者数が発表されました。人々は恐れおののき、さぞかし不安な日々だったろうと思われます。
 このコレラ事件の後も、明治19年のコレラ流行や、大正5・6年の四日市の紡績工場を中心に流行したペストなどがあり、伝染病はあとを断ちませんでした。そのたびに、国や県はその対策におおわらわで、人々は、心配な毎日をすごさなければならなかったわけです。

(昭和62年2月 伊東由里子)

コレラ予防薬の新聞広告

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コレラ患者・死者数(『三重県警察史』より)

コレラ患者・死者数(『三重県警察史』より)

参考文献

『三重県警察史』第二巻 昭和40年
『大正5・6年三重県ペスト誌』 大正8年

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