明治初期の英語熱と宮崎語学校
外国での生活や海外旅行で頭を悩ますのは言葉の問題です。そ のためか、最近は特に外国語を身につけるという人が多くなっています。
しかし、このように考えるのは現代人だけではないようです。明治維新を迎えた人々にとっても、英語を身につけることは、当時の知識人としては大切な条件でした。
英語学習熱が高かったのは東京だけではなく、三重県でも憲政擁護運動に活躍した尾崎行雄は、明治5年(1872)15歳の時に伊勢山田の宮崎郷学校、のちの宮崎語学校で英語を学び、その後、上京して慶応義塾に入りました。
この宮崎郷学校は、明治5年8月、休校していた度会県学校の一部を「洋学校」として再興したものです。西欧文明を取り入れるための重要な機関として、近代国家を担うにふさわしい有用な人材を育成するためにつくられたのです。
成立の基礎としては、明治政府をはじめ、県当局が外国からいろいろなことを学びとろうとする姿勢と方針を打ち出したこともありますが、それ以上に地元有志を中心とする地域住民の願いと財政的支持が大きな力となってつくられたのです。
そして、明治6年5月、宮崎郷学校中等部は宮崎語学校と改称し、明治7年には、かつて東京帝国大学で英語教師を勤めたことのあるイギリス人、フレデリック・サンデマンを月給 150円の高給で雇い入れ、本格的な語学教育に取り組みました。生徒は約30名でしたが、その中には尾崎行雄や、のちに東大教授になった的場中などがいます。
しかし、明治8年12月にサンデマンの帰国によって惜しくも閉鎖されてしまいました。
(昭和62年7月 松尾美恵子)
英語教師 サンデマン(『宇治山田市史』より)
サンデマン就職約定書(『宇治山田市史』より)
参考文献
『宇治山田史』 昭和4年
西田善男『明治初期における三重県の外語学校』 昭和47年