ロシアを見てきた最初の日本人・大黒屋光太夫
海外旅行があたり前になった今日、外国へ行くことはおろか、外国のことに興味をもつことさえ罪になった時代を想像できるでしょうか。江戸時代、鎖国政策を徹底させるため、幕府は一般の人々が外国についての知識をもつことを厳しく禁じていました。しかし、例外はあって、漁船や廻船が時化のため外国へ流されるのはしかたのないことで、中国や朝鮮などへ漂流した人がたくさんいます。
現在の鈴鹿市の南若松という地に生まれた大黒屋光太夫は、ロシアに漂着し、帰国した最初の日本人でした。天明2年(1782)、光太夫31歳の時、江戸に向かって白子を出帆した彼らは駿河沖で遭難し、北へ流されて小さな島で寒さや飢えと闘いながら4年間をすごしたあと、ロシアに渡りました。彼を日本語学校の教師に、というロシアの望みをふりきって帰国願いを繰り返し、数年後、ついに帰国の許可を得たのです。出帆時には17名だったのが3 名になってしまっていましたが。
ロシアで世話になった人の息子アダム・ラクスマンが、日本との貿易を求める使節となり、寛政4年(1792)9月、光太夫を連れて北海道の根室に着きました。しかし、前例のないことに幕府は大混乱となって、使節と役人の長い交渉ののち、松前で光太夫が幕府側に引渡されたのは翌年6月のことだったのです。
ロシアを見てきた最初の日本人として、彼は将軍や老中松平定信の前で様々な質問を受けましたが、彼はそれに的確に応えました。ロシアでも名を知られていた蘭学者の桂川甫周は、光太夫の知識をもとに『北槎聞略』という書物を著しましたが、甫周を満足させるだけの見聞を一介の商人である光太夫がしてきたことは驚くべきことです。鎖国政策を守ろうとする幕府は、彼を危険人物のように扱い、江戸番町の薬草場へ閉じこめてしまいました。ロシアの女帝エカテリナ2世に謁見し、勲章までもらった彼だったのですが。
煙草と帳面を離さなかったという彼。彼はどんなつもりで見聞きしたことを書き留めていたのでしょうか。当時はヨーロッパ諸国が本格的にアジアに進出し出した時代です。もしかしたら光太夫は、そうした世界の波を敏感にかぎとって、彼の得た知識を日本に伝えるために帰ってきたのかもしれません。
(昭和61年6月 鈴木えりも)
若松小学校の光太夫像
使節ラクスマンの乗ったエカテリナII号(『北槎聞略』より)
参考文献
『北槎聞略』吉川弘文館 昭和40年
亀井高孝『大黒屋光太夫』吉川弘文館 昭和39年