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亀山で29年目の仇討


 今日は、石井源蔵・半蔵兄弟の亀山仇討について、お話ししましょう。
 石井源蔵・半蔵の父は信濃国小諸城主・青山因幡守宗俊の家臣で、石井宇右衛門といい、宗俊が大坂城代となった時、共に従って大坂へ行きました。その折り、美濃大垣以来の友人赤堀遊閑が訪ねて来て、養子の源五右衛門の将来を頼みました。宇右衛門は引き受けましたが、しばらくして、源五右衛門が家中の者に槍を教えていると聞き、宇右衛門は、もう少し稽古をしてからにしたほうがよいと説くと、源五右衛は立腹し、それならば勝負をしたいと言うので、宇右衛門も仕方なく応じて源五右衛門を討ち負かしました。
 このことを恨みに思った赤堀源五右衛門は、延宝元年(1673)11月18日、外出中の石井宅に入り込み、帰宅した宇右衛門を槍で殺して逃げてしまいました。そこで、小諸藩の近習役で18歳になる宇右衛門の長男三之丞は、次男彦七と共に仇討の旅に出るのです。そして、同年12月8日の夜、源五右衛の養父・赤堀遊閑を大津で討ちとることができました。しかし、八年後の天和元年(1681)正月、美濃で源五右衛門の返り討ちに遇い、さらに次男彦七は、一人で伊予へ渡る時、嵐のため溺死してしまいます。
 三男源蔵・四男半蔵は、父が討たれた時、まだ5歳と2歳で、縁者の安芸国浅野藩士に預けられていましたが、二人の兄が死んだので、源蔵が14歳になった年、仇討に旅立ちます。
 その頃、赤堀源五右衛門は、名を赤堀水之助と改め、亀山藩に仕えていましたが、亀山藩は源五右衛門をかくまい、他国者には一夜の宿をも禁止し、見知らぬ者は一切城内に入らせないといった厳重さで、容易に近づくことができませんでした。源蔵兄弟は行商人となったり、近江の茶売りとなったりして仇の身辺を探りましたが、機会を得ることができなく、むなしく歳月が流れました。が、ようやくにして、源蔵兄弟は亀山藩士の家に奉公することができ、ついにその機会が訪れました。元禄14年(1701)5月9日の朝、宿直であった源五右衛門が出てくるのを亀山城内で待ちうけて、兄弟はめざす仇を討ち果たしたのでした。父の死から29年目、兄達の死から20年目のことで、長谷川伸の小説『29年目の仇討』の題材にもなっています。
 また、この仇討は、赤穂浪士の討ち入りにも影響を与えたと言われています。浅野内匠頭長矩の切腹がこの3月、討ち入りは翌年12月でした。

(平成元年12月 海津裕子)

亀山城内に建てられた仇討の碑

亀山城内に建てられた仇討の碑

参考文献

湯浅常山著・森銑三校訂『常山紀談』岩波文庫 昭和15年
山田木水『亀山地方郷土史』第2巻 三重県郷土資料刊行会   昭和46年

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