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誇張されて伝わる「伊賀越仇討」


 ひとつの歴史が語られる時、その事件のあった時代の、ものの考え方や世相が反映され、大きく誇張されたり、省かれたりして伝えられることも多くあります。今日は歌舞伎や講談などに広く取り上げられ、荒木又右衛門の「36人斬り」で知られる「伊賀越仇討」について、お話ししてみたいと思います。
 この事件の発端は、寛永7年(1630)7月のことで、岡山藩士・渡辺数馬の弟源太夫が、友人の河合又五郎に殺害されたことから始まります。その後又五郎は江戸に逃れ、旗本の家にかくまわれていることを聞いた岡山藩主池田忠雄は、早速幕府にまで訴え出て、又五郎の引き渡しを迫り、大名家と旗本家の対立にまで発展しそうになりました。ところが、藩主の忠雄が急死し幕府へ訴えてもかなわぬこととなりました。数馬は浪人となって、主君の無念を晴らし、弟の仇を討つよりほかに方法がなくなってしまったのです。
 人に殺傷され、その遺族がその報いを、また殺傷をもってするなどといった行為は、現代社会では到底考えられないことですが、国家的な法制のない時代にあっては、何らかの方法で、直接行動をとらざるを得なかったのでしょう。
 数馬は、仇討を遂げるため、姉の夫である荒木又右衛門に助けを求めました。又右衛門は現在の上野市荒木の出身で、彼らの父はともに藤堂家に仕えたこともあり、また又右衛門は柳生流の達人で、義弟数馬とともに仇を探すため旅立つのです。江戸・京都・大坂など東海道を上り下りし、ようやく仇又五郎が奈良にいることをつきとめました。
 そこで、数馬ら一行4人は、伊賀上野城下の入口、鍵屋の辻で、又五郎一行11人に襲いかかり、やっと仇の又五郎を討ちとることができました。寛永 11年11月のことで、早朝から六時間ばかりが経っていました。そしてこの時の死者は、数馬側1名、又五郎側4名であったのです。
 それにしても「36人斬り」とは、よくも誇張されたものです。これは、武士道や主従関係が重視された江戸時代にあって、この仇討が赤穂浪士の「忠臣蔵」と同じように封建倫理の好材料とされ、仇討を助けた荒木又右衛門がスーパースターになるためには、「36人斬り」が必要だったのでしょう。

(昭和62年11月 吉村利男)

歌舞伎芝居「伊賀越乗掛合羽仇討」の浮世絵(部分)

歌舞伎芝居「伊賀越乗掛合羽仇討」の浮世絵(部分)

参考文献

上野市古文献刊行会『宗国史』 昭和54年
上野市『上野市史』 昭和36年

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