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海軍工廠跡地と鈴鹿市の工場設置


 今年も鈴鹿は、F1グランプリで盛り上がり、世界の注目を集めました。レーシングコースが完成したのは昭和37年(1962)のことで、翌年の5月には、日本で初めて国際自動車グランプリレースが鈴鹿で開催されています。
 鈴鹿は、四日市市と共に、県内では工業都市として有名ですが、それには、第二次世界大戦中、たくさんの軍事施設が配置されていたという歴史的な背景があります。特に現在本田技研をはじめ多くの工場がある平田町周辺には、海軍工廠が置かれ、他の地域にも鈴鹿海軍航空基地・軍病院・陸軍の通信工作・気象観測・教育部隊等がありました。海軍工廠の設置は昭和18年6月1日ですが、海軍工廠の建設と並行し周辺の町村が合併され、昭和17年12月1日には鈴鹿市が誕生しました。海軍工廠を迎えるために市制を施行したようです。
 そして、終戦後は膨大な軍の施設の跡地利用が大きな問題となり、市側は、それらの施設を市民の公共の施設、例えば、病院・学校・市場・警察署や工場に利用することにし、また解体された資材も市内の中学校建設などに使われたということです。
 また、海軍工廠付近は、広い敷地と整備された道路があり、大工場の進出に適しており、鈴鹿市は、積極的に企業の誘致策を展開します。昭和25年11月には、全国にさきがけて、「鈴鹿市工場設置奨励条例」が制定され、進出企業に奨励金を出すなどの結果、呉羽紡績、旭ダウ等の大企業の進出が決まりました。それ以来、次々と大きな工場が設置され、平田町周辺は一大工業地帯となりました。近鉄鈴鹿線も、住民や企業・市側の強力な運動の結果平田町まで延長が認められ、昭和三八年四月には、元の伊勢神戸駅である鈴鹿市駅と新しく作られた平田町駅間4.1キロメートルが開通しました。
 軍関係施設のなごりは、今も鈴鹿のあちらこちらに見られますが、その一つとして、神戸地区内の国道から海軍工廠正門前に続いていた直線道路があります。延々5キロメートル以上の長い道で、今も「海軍道路」と呼ばれているそうです。

(平成2年10月 伊東由里子)

昭和30年代の「海軍道路」(花井圭一氏提供)

昭和30年代の「海軍道路」(花井圭一氏提供)

海軍工廠跡地に建設された工場(昭和35年ごろ)(花井圭一氏提供)

海軍工廠跡地に建設された工場(昭和35年ごろ)(花井圭一氏提供)

参考文献

『鈴鹿20年のあゆみ』昭和37年
『鈴鹿のおいたち』昭和50年
『三重県史』資料編 現代2(産業・経済) 平成4年

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