トップページ  > 県史あれこれ > 村民と交流、紀州鉱山のイギリス兵

村民と交流、紀州鉱山のイギリス兵


 現在世界中を揺るがせている湾岸戦争を、かたずをのんで見守っている方も多いかと思います。そのような中で、先だってアメリカの女性兵士がイラク軍の捕虜となり、世界の人々を驚かせました。というのも、これまでの戦争史上、女性が敵方の捕虜になった前例がないからです。しかし、戦争では、悲劇的なことですが、捕虜の問題は避けられません。
 そこで、今日は、第二次世界大戦中に南方戦線で日本の捕虜となり、三重県南牟婁郡の紀州鉱山に送られてきたイギリス兵について、お話しましょう。
 イギリス兵捕虜300名が紀州鉱山に送られてきたのは、昭和19年(1944)6月ごろで、それまではマレー地域で捕虜となり泰緬(たいめん)鉄道の工事などに従事していたようです。捕虜収容所は入鹿村の板屋(現紀和町)にあり、イギリス兵たちはそこで生活しながら鉱山で採石や設備の作業等に従事しました。坑内作業がほとんどですが、当時イギリス兵と一緒に仕事をした人の話では、彼らは勤勉で明るく、休み時間には日本人とも手まねを交えてよくしゃべったそうです。また、入鹿村の人たちは、野菜や菓子等を収容所に届けて、彼らと交流を持ちました。そうした心遣いが通じたのか、イギリス兵の一隊が村民の葬儀に出会った際、彼らは行進を止め、葬儀の列に敬礼をし、村民に強い感銘を与えたということです。さらに、終戦まもなく、イギリス兵の隊長は、村長に村民の野菜等の提供を深く感謝し、作業服の村民への寄贈を申し出たという話です。戦争という苦しい体験を共にし、そこには国を越え、民族を越え、人間と人間の温かい交情が感じられます。
 昭和20年8月15日の終戦、収容所は歓喜の声で満ちあふれ、イギリス兵たちは学校へ飛び込んでピアノを弾いたり、祝酒を飲んだり、それぞれの自由を味わいました。そして、9月8日、自由の身となったイギリス兵たちは13台のトラックに分乗して収容所をあとにしました。習い覚えた「さようなら」を連発し、いつまでも手を振り続けていたということです。
 しかし、全員が帰国できたわけではありませんでした。16名が病死し、異国の地で眠ることになったからです。現在、白い十字架が立てられた兵士たちの墓地は、地元の老人クラブの人たちの手によって、花が供えられ掃除がなされています。

(平成3年2月 山口千代己)

紀和町板屋の元イギリス兵墓地

紀和町板屋の元イギリス兵墓地

参考文献

佐々木仁三郎『三重県終戦秘録』三重郷土資料刊行会 昭和45年
『紀和町史』下巻 平成5年

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る