トップページ  > 県史あれこれ > 高いシェア誇る「伊賀の組紐」

高いシェア誇る「伊賀の組紐」


 今日は、三重県の伝統産業の一つである「伊賀の組紐」についてお話します。
 「伊賀の組紐」は、東京で9年間住込み奉公をして江戸組紐の技術を修得した広沢徳三郎が、明治35年(1902 )、郷里の伊賀の地に組紐工場を開設したことから始まります。
 当時の伊賀地方には、これといった産業はなく、養蚕業が盛んで生糸の入手が容易であったことと、近代工業が未発達で婦人労働力が豊富であったことなどから、工場での作業と同時に家庭内職としても定着し、外注も増えました。
 ですから、組紐の技術を持っている娘は、嫁として一段の価値があり、嫁入りの荷物と共に組紐台が持ち込まれたそうです。また、業者の間で組み子の争奪戦が行われることもあったそうです。
 昭和12年(1937)の日中戦争のころまでは、京都や大阪の問屋の下請けとして帯締めや羽織紐などを生産していましたが、14年生産機台と技術を保持している業者に原材料を受注する権利が認められ、問屋からの下請け・賃加工を脱却することができました。以来、「伊賀の組紐」として自家製品を生産し続けています。
 そして、現在では、徳三郎以来の伝統である「手組み」と技術開発による「機械組み」の二種類両方合わせて、全国で生産される組紐の6割という高いシェアを誇っています。とりわけ、「手組み」は9割近い状態で、独壇場となっています。
 昭和49年に公布された「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」により、昭和51年12月15日に「伊賀くみひも」が伝統的工芸品に通商産業大臣から指定を受けました。また、昭和52年には、通産省の外郭団体である伝統工芸品産業振興協会より、伊賀組紐の組み子20人が伝統工芸士に認定されました。
 しかし、その反面、婦人の和装離れや従業者の高齢化、そして外国よりの低コストによる製品の輸入が増大し、生産量が減ってきていることも事実であり、組紐の技術を活用した他分野への進出も研究されています。

(平成5年8月 池田陽子)

組紐台のいろいろ(伊賀くみひもセンター蔵)高台

組紐台のいろいろ(伊賀くみひもセンター蔵)高台

組紐台のいろいろ(伊賀くみひもセンター蔵)綾竹台

組紐台のいろいろ(伊賀くみひもセンター蔵)綾竹台

組紐台のいろいろ(伊賀くみひもセンター蔵)角台

組紐台のいろいろ(伊賀くみひもセンター蔵)角台

組紐台のいろいろ(伊賀くみひもセンター蔵)丸台

組紐台のいろいろ(伊賀くみひもセンター蔵)丸台

参考文献

三重県工業振興課『伊賀組紐産地診断報告書』 昭和50年度
橋本俊士「組みひも」『三重県の伝統産業』三重フィールド研究会 昭和54年

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る