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多くの乗客誘致した朝熊登山鉄道


 夏休みももう終わり。海や山に出掛けられた方も多いことでしょう。今年は鳥羽水族館が新しくなったこともあり、県下では特に伊勢・志摩方面が、例年以上ににぎわいました。また、伊勢市内から朝熊山山頂を結ぶ伊勢志摩スカイラインは、観光ドライブコースとして、この地方を訪れる人たちに親しまれています。
 朝熊山と言えば、南は熊野灘に面し、東は東海を経て富士と相対し、北は白山・御嶽・伊吹等の連峰が一望できる風光明媚な場所として知られるとともに、山頂には金剛証寺があり、伊勢神宮の奥の院として、昔から多くの参拝者が訪れていました。
 今は知る人も少なくなりましたが、朝熊山には以前ケーブルカーがあり、たくさんの人たちに利用されていました。このケーブルカー朝熊登山鉄道は、大正14年(1925)8月26日に開通しました。敷設計画の中心になったのは、伊賀上野出身の田中善助でした。彼は県下で初めての水力発電事業を行った人ですが、大正11 年には上野名張間に伊賀鉄道を敷設し、地方交通の発展に大きく貢献した人でもありました。朝熊登山鉄道の設立趣意書を見てみますと、朝熊山の登山者が減ったので、鉄道を敷いて伊勢参宮に来た人が気軽に登れるようにしようとあります。また、朝熊山は自然環境に恵まれ夏涼しく、天然の避暑地として多くの人々を呼ぶだろうとも言っています。
 こうして、朝熊登山鉄道は計画が進められていくのですが、実施設計では五十鈴川の渡河点や楠部の神宮御斎田が問題となり、神宮司庁や地元の人々の承諾を得るため再三設計を変更し、やっと2年後に工事が着工されました。
 開通当初から「お伊勢詣らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参宮(まいり)」というキャッチフレーズで宣伝したため、多くの乗客を誘致することができました。参宮のあとはケーブルカーで朝熊山へ。金剛証寺参拝者でにぎわう山頂の旅館「とうふや」、お土産に万病の妙薬万金丹を買い求める人たちなど、朝熊山山頂の情景が目に浮かぶようです。
 しかし、第二次世界大戦中の昭和19年(1944)1月、銅鉄の不足から、軍の強制命令により東洋一の勾配を誇ったケーブルカーも廃止されてしまいました。
 現在でも登山道から荒れ果てた朝熊登山鉄道の跡が見られますが、古き良き時代を思うとともに、ちょっぴり寂しい気がします。

(平成2年8月 多上幸子)

朝熊登山鉄道絵はがき(樋田清氏蔵)

朝熊登山鉄道絵はがき(樋田清氏蔵)

朝熊登山鉄道絵はがき(樋田清氏蔵)

朝熊登山鉄道絵はがき(樋田清氏蔵)

参考文献

鉄城会同人『鉄城翁伝』鉄城会事務所 昭和19年
尾崎鉄之助『三重県自動車五十年史』三重県交通安全協会連合会 昭和42年
森田雅和『追跡朝熊登山鉄道』昭和59年
森田雅和『続追跡朝熊登山鉄道』昭和63年
『三重県史』資料編 近代3 産業・経済 昭和63年

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