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71 戦後、三重県で開催の博覧会


Q 三重県で、戦後二十年代に開催された大きな博覧会には、どんなものがありますか。その名称・場所・内容などについて教えてください。

(平成九年五月 県内個人)
A まず、戦後最初に開催された大きな博覧会は、昭和二十三年三月三十一日〜五月三十一日の六十二日間、宇治山田市で開催された「平和博覧会」です。「趣意書」によれば、博覧会の目的として、産業復興と貿易振興、観光の紹介、文化国家・民主国家の建設を掲げていますが、二十一年に伊勢志摩国立公園の指定を受け、それも一つのきっかけとなっています。宇治山田市と宇治山田商工会議所が「共同主催」し、中央会場・西会場・外宮前会場・宮町会場の四会場で各種の展示や即売が行われました。中央会場は徴古館を中心とした倉田山で、アメリカ文化館(憲法室含む)・農業館・機械館などが設けられました。特に憲法室は、この博覧会期間中に新憲法施行一年が経過するわけで、「『新らしき憲法精神』の解釈を写真、図表、パノラマ等によって展示」されたそうです。西会場は「近鉄終点前」すなわち宇治山田駅前で、観光館・子供の科学館・美術館などがありました。なかでも、子供の科学館は「子供を中心とした教育的な科学知識の普及を計」るため、「子供の発明品懸賞募集」も実施しました。また、外宮前の文化館では科学及び労働に関する資料、宮町会場では「文化住宅」五〇戸の展示がありました。復興住宅は当時の重要な課題で、設計を全国の建築家から募集しましたが、「収支決算書」には「文化住宅売却費 十戸分 一、三二九、三〇〇円」が計上されており、博覧会終了後は復興住宅として実用化されたようです。なお、この博覧会の総入場者数は、入場券の売上から計算すると、約五五万人に達し、大成功のうちに閉幕しました。
 次に、四年後の二十七年三月十五日〜五月十五日の二ケ月間、上野市で「世界こども博覧会」が開催されました。講和や市制一〇周年の記念事業として実施されたものです。「開催要綱」には、「各般の施設及資料を世界的規模によって聚集展観し──新日本青少年児童の道義並に智能の向上」という目的のほか、「経費予算五千万円」、「総合科学館・テレビイ館・原子館・国連館・世界の童話館・母と子の館・忍術館・芭蕉館・大動物園・大遊園地」の施設概要などが記載されており、開催計画がわかります。博覧会の開会式は、上野公園内野外劇場で県内外から三千名余が参加し、盛大に行われました。当時の新聞には、初日の一般入場者は約五千人とあります。今と違って娯楽の少ない時期、子供たちにとっては楽しいイベントであったことと思われます。
 この「世界こども博覧会」の開催期間中に、もう一つ県内で大きな博覧会がありました。それは、四日市市で開催された「講和記念全日本農機具・新日本産業大博覧会」です。三月二十五日〜四月二十三日の約一ケ月間開催され、会場は「省線四日市駅と近く新設せらるべき近畿日本鉄道諏訪駅とを結ぶ七〇米の中央道路がほぼ完成されていたので、これを使用する」こととなりました。この博覧会は農機具の展示が中心と思われますが、会場には、「産業・農業振興・近代農業・娯楽」の四ブロックが設けられ、産業ブロックには、「講和記念館・新聞ラジオ館・四日市館・三重館・アメリカホール」などがあり、娯楽ブロックではサーカスも行われ、様々な展示や催しが実施されたのです。そのため、入場者数は予想以上の約八〇万人にも及んだということです。

参考文献

『平和博覧会写真帳』 昭和二十四年
「世界こども博覧会開催要綱」「世界こども博覧会趣意書」 昭和二十六年
『講和記念全日本・新日本産業大博覧会誌』 昭和三十一年

講和記念全日本農機具・新日本産業博覧会(「博覧会誌」より)

講和記念全日本農機具・新日本産業博覧会(「博覧会誌」より)

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