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65 浅井平一郎と三重博物会


Q 大正から昭和初期にかけて、病院経営のかたわら三重博物会の開催を主唱し、植物採集を中心に活躍した浅井平八郎について教えてください。

(平成八年九月 県内個人)
A 浅井平一郎の経歴を知る資料としては、昭和三十一年四月に、自らが著した『丹波修治先生伝』の「後記(著者小伝に結びて)」があり、同三十三年七月六日脱稿の『羊歯栽培記』や『三重博物会報』などにも経歴のわかる箇所が見られます。以下、これらによって、平一郎の略歴、特に植物採集にかける熱意を中心にたどってみましょう。
 平一郎は、桑名郡額田村(現桑名市)のもと桑名藩士の家に第一子として生まれました。高等小学校を卒業した年の明治二十九年(一八九六)、朝明郡川北村(現四日市市)の丹波家に仕え、「爾来、そこに六年、丹波修治先生からは漢学を始め諸種の学業を授けられ」ました(「後記」)。特に「翁が植物を愛し珍草を集めて娯みとされたその高尚にして優雅な趣味に尠からぬ感化を受け──附近の山野を漁って植物を得、是をおし葉として丁寧に処理し、そして翁の主宰された嘗百交友社博物会の開催毎に出品してその目録表を受ける事に無上の楽と誇りを覚えるやうに」なったと言っています(『会報』第一号、以下引用同じ)。そして、医学を志していた平一郎は、医師試験にも合格し、軍医を志願し海外に行っても、植物を採集し丹波先生に送ることは忘れなかったようです。また、一家で日本海の隠岐に移り住んだこともあり、「其処にはまた、表日本とは趣を異にした幾多の草々が我等を待つて居た私の最も大きな楽しみはこの日本海の珍種を蒐めた標本を恩師丹波修治翁に呈して御批判を請はんとする事」と回想しています。
 そうした平一郎であり、桑名郡に戻ってからも、病院を経営するかたわら、シダ類採集に熱中するようになりました。やがて、員弁郡治田村(現北勢町)の甘露寺住職多田俊学や四日市市の川崎光次郎、さらに名古屋の梅村甚太郎・右左見直八・鈴木釘次郎らとも交流し、採集の活動範囲や見識を広めました。
 昭和四年二月、「植物採蒐の生活には常になくてはならぬ無心の伴奏者」であった夫人が逝去しますが、「妻の形見なる」標本類の県への寄贈によって、翌年春に三重県知事表彰を受けました。この表彰が三重博物会の開催の一つのきっかけとなります。すなわち、寄贈標本類の整理を助けた鈴木釘次郎をはじめ同好の諸氏を招いて祝宴を開き、その席上において、「わが多年宿望した所の植物の会」を提唱し、多くの賛同を得たのです。
 早速、五年六月十三日に発起人会を自分の病院で開催し、「三博物会々規」や将来の事業の打合わせを行い、三重博物会を誕生させました。同年七月に第一回博物陳列会、翌年十一月に第二回博物陳列会と植物に関する座談会を開催しました。この第二回博物展覧会は、多くの出品があり、浅井病院の建物五棟が当てられました。また、開会の期間も最初三日間の予定を「熱心なる来観者は連日絶間なかりしを以て十日間」となり、「一千名に余る来観者」があったそうです。そして、七年三月下旬頃には第三回博物陳列会を予定していましたが、戦争の影響からか、これは実現しませんでした。以後の三重博物会の活動は不明です。
 なお、大正から昭和初期にかけては、県下でも三重博物会のほかに、伊賀植物同好会・四日市植物同好会・中勢博物同好会、宇治山田理科学会・神都理科学会・尾鷲郷土博物同好会・熊野博物同好会などの多数の動植物等の研究会や同好会が発足し活躍した時期でもあります。

参考文献

『三重博物会報』 第一〜三号 三重博物会 昭和五〜七年
浅井平一郎『丹波修治先生伝』(孔版)昭和三十一年
浅井平一郎『羊歯栽培記』(孔版)三重博物館 昭和三十三年
『三重県史』別編(自然) 平成八年

浅井平一郎自画像

浅井平一郎自画像

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