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64 哲学者・紀平正美


Q 明治から昭和にかけての哲学者・紀平正美は、三重県の出身と聞きましたが、この人のプロフィ─ルを教えてください。

(平成七年九月 県内個人)
A 紀平正美は、明治七年(一八七四)四月三十日に安濃郡野口村(現安濃町)で生まれました。当時は大区小区制の時期で、正確に住所を表示すると、三重県第八大区五小区ということになりますが、正美の父・雅次郎は六年六月から戸長を務めていました。紀平家は、近世期には代々野口村の庄屋をしており、雅次郎ものちには県会議員として選出されます。
 こうした紀平家でありますから、多くの資料が残されており、『三重県史』や『安濃町史』の編さんには格別の協力を得て、資料を調査させていただいています。正美の履歴に関する書付けも雅次郎の『記録』という簿冊の中に見られます。以下、簡単に経歴を述べてみます。まず、「明治十九年十月大塚学校中等一級卒業、二十二年三月養正高等小学校ニテ高等小学校卒業」とあり、既に十二歳で津に止宿し通学しています。その後、二十七年に三重県尋常中学校(津中)、三十年に第四高等学校(金沢)、三十三年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業します。また、卒業後は、大学院にも五ケ年在学しますが、東洋大学・青山学院など多くの学校で「教授ヲ嘱托セラレ」、大正八年(一九一九)十月には学習院教授となります。かたわら東京帝国大学・東京高等師範学校・国学院大学・明治大学などでも講義をしていたようです。
 一方、大学卒業頃は哲学研究の代表的な雑誌『哲学雑誌』の編集にも関与し、三十八年には小田切良太郎と共同で『エンチクロぺデイ』の一部を「ヘーゲル氏哲学体系」として同誌に翻訳連載して、日本におけるヘ─ゲル研究の先駆となりました。そして、ヘ─ゲル弁証法を基礎にして、これと東洋思想を結びつける彼独自の理論体系を生み出すに至ります。
 その後、紀平正美は、昭和七年から十八年まで国民精神文化研究所員として、日本主義的哲学の普及に努めます。そのため、第二次大戦後は公職追放となりますが、二十四年、七十六歳で逝去し、郷里の安濃町安養寺に葬られました。
 最近、安濃町史編さん事業の資料調査が進む中で、壮年期の紀平正美と『善の研究』の著者・西田幾太郎との交誼を示す書簡が発見されました。『西田幾太郎全集』にも未載の書簡で、大きなニュースになりました。
 『安濃町史』の資料編には一一通が掲載されていますが、これらをたどってみますと、『善の研究』の刊行を目前にした西田幾太郎が、1「実在」・「純粋経験」といった用語のこと、2書名を『善の研究』にすること、3その章立ての善し悪し、4「序文」草案の推敲、5初版の出版社との間の契約のこと、6出版広告文執筆のことなど、様々な問題を紀平正美に相談を持ち掛けていることがわかります。
 『善の研究』は、のちに岩波文庫にも収録されて、青年たちにいかに生きるべきかを問い掛け多大な影響力を保持し続けた名著です。新出書簡は、その『善の研究』出版前後の事情を知るにはきわめて貴重なものです。

参考文献

『安濃町史』資料編 平成六年
『安濃ふるさと一〇一話』 安濃町 平成九年

紀平正美の主な著書一覧

紀平正美の主な著書一覧

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