トップページ  > 県史Q&A > 63 岩田準一と伊勢朝報

63 岩田準一と伊勢朝報


Q 風俗研究家・岩田準一の研究をしようと考えています。略歴を教えてください。また、地元新聞の『伊勢朝報』とも関わっていたようで、調べたいのですが、『伊勢朝報』は残されていますか。

(平成八年十月 県外個人)
A 岩田準一は、明治三十三年(一九〇〇)志摩郡鳥羽町で生まれました。『郷土志摩』41に掲載の「亡父岩田準一を語る」(岩田鏡之助著)によれば、小学校の頃から絵が好きで、第四(宇治山田)中学校時代には既に雅号を持ち、屏風・軸・短冊に絵筆を揮っていたようです。抒情画家として有名な竹久夢二とも中学生のときに出会っています。その後、親の意見もあって神宮皇学館に進みますが、自由人としての肌にはなじめず、神宮皇学館を中退し、東京の文化学院絵画科に転校しました。文化学院は大正十年(一九二一)創立で、与謝野鉄幹・晶子夫妻が創立に参画したものです。与謝野夫妻とは古典全集の編纂などで既知の間柄で、竹久夢二も文化学院で教鞭をとっていたのです。そして、夢二の家の書生も務め、夢二の没後には『夢二抒情画選集』を編集刊行しました。準一の二十九歳のことです。
 また、上京した準一は、江戸川乱歩とも旧交を温めました。すなわち、乱歩は早稲田大学を卒業して鳥羽造船所に勤めており、中学生であった準一とは文学上の交わりがあったわけです。乱歩の『パノラマ島奇談』や『踊る一寸法師』などの挿絵を担当したり、さらに、乱歩のピンチヒッターとして鼎銀次郎というペンネームで通俗読物も多数書いたようです。
 一方、準一は男色研究に強い意識をもっていました。風俗研究家と言われるゆえんでしょうが、乱歩とともに関係資料を収集したり、南方熊楠翁と書簡による討議を行っていますが、その傍ら民俗学も手掛けました。それには、昭和四年(一九二九)に東京を離れて鳥羽に帰ったことや時勢に押されて軟文学などは発表する場もなくなったことが影響していますが、既に「志摩のはしりがね」の調査をしていた経緯もあり、素地は十分でした。帰郷すると、早速「志摩のはしりがね」の習俗伝承の調査を継続するとともに、七年には当時民俗誌として有名な『郷土研究』に「志摩国鳥羽町方言集」を掲載し、注目されます。
 その後、近畿民俗学会や渋沢敬三主宰のアチック・ミューゼアム(のち日本常民文化研究所と改称)の同人にもなり、特に志摩の民俗調査について多くの業績を残しました。主なものをあげると、「志摩の蜑作業の今昔」(『島』昭和九年)、「志摩のはしりがね」・「志摩国立神村の神事」・「志摩の漁夫の昔がたり」(『旅と伝説』13−1・7・8・12昭和十五年)、「私の採集話」(『民間伝承』6−6昭和十六年)などです。
 そして、昭和二十年、準一は渋沢敬三から近衛首相の蔵書目録の作成を依頼され、上京後、胃潰瘍による出血のため他界しました。享年四十五歳でした。
 なお、お尋ねの『伊勢朝報』ですが、この新聞は、明治三十二年創刊の『山田朝報』が解題(『伊勢市史』によると明治三十六年)されたもので、昭和十七年「一県一紙」に統制され『伊勢新聞』に合併するまで発刊が続けられます。しかし、現在確認できる新聞は大正七年五月〜十二年六月(欠号多し)の分のみで、昭和四年に帰郷した岩田準一がどう関わったかを知ることができません。『伊勢朝報』の現物確認の必要性を痛感するところです。

参考文献

岩田鏡之助「亡父岩田準一を語る」『郷土志摩』41 志摩郷土会 昭和四十五年
堀田吉雄「岩田準一氏の業績など」『郷土志摩』41 志摩郷土会 昭和四十五年
岩田準一、岩田貞雄『志摩の海女』鳥羽志摩文化研究会 昭和四十六年

資料

資料

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る