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52 街道名と「道路法」


Q 現在の国道一号線や旧国道二三号線などの道路は、江戸時代の街道が原道であったということですが、その街道名の決定的な資料は何ですか。また、街道名が使われなくなったのはいつですか。明治以降の道路の管理区分などの変遷も含めて、聞かせてください。

(平成九年七月 行政機関)
A 三重県域では、参宮客なども多く、古くからいくつもの街道がありました。しかしながら、道路の制度という面では不完全なものでした。そんなこともあって、主な街道の名称が公式的に定まるのは明治期になってからのようです。県内の主要街道について、その名称とか起点・終点、宿宿駅間距離、延長距離などを知るには『明治九年三重県治概表』がありますが、これが最初の公的な資料と考えられています。
 この資料には、「街道」として「東海道・伊勢街道・同・和歌山街道・伊賀街道・大和街道・初瀬街道・熊野街道・鳥羽街道・名張街道」の一〇道があげられています。このうち、東海道と伊勢街道の県内延長距離を見てみると、東海道は愛知県界から滋賀県界まで約一二・四里、伊勢街道は日永追分から山田まで約一三・九里で、それぞれ主要な宿駅が掲げられ、宿駅間の距離もわかります。なお、右記の「同」は、いわゆる伊勢別街道のことで、『明治十年三重県統計表』では伊勢街道と区別し明記されます。さらに、『統計表』では奈良街道と和歌山別街道が増え、一二道となっています。
 また、『明治十一年三重県統計表』には道路幅の表記があり、当時の道路は広くても三間でした。こうした状況の中で、国家的な道路の整備方策として、まず明治九年(一八七六)六月、太政大臣から各府県あてに、道路分類等級を定めたので、詳細を取り調べて内務省に提出せよという達しが出されました。これは、道路は国道・県道・里道とし、それぞれを一等から三等に区分し、一般的な道幅として国道は一等が七間、二等が六間、三等が五間、県道は四間ないし五間にするという計画でした。しかし、実施までには時間がかかったらしく、十二年十二月の「三重県道路取締規則」を見ても国・県・里道の区分はされておらず、『明治十九年三重県統計書』に初めて区分が出てきています。国道は東海道と伊勢街道の二道、仮定県道としては一五道(前掲の一二道のうち東海道・伊勢街道を除く一〇道と美濃街道・久居道・大口港道・神社港道・四日市港道の五道)、里道は六一道が記載されています。明治十八年二月の内務省告示第六号で国道に初めて番号が付され、東京から伊勢神宮までが九号とされました。
 そして、大正九年(一九二〇)四月には「道路法」が施行され、道路は国道・府県道・郡道・市道・町村道の五種類に区分されました。『大正九年三重県統計書』では、国道二路線、府県道八一路線、郡道三六〇路線が記載されていますが、県統計書では、このときから国道に街道名を使わずに番号を使うようになっています。
 三重県に関係する国道の東海道と伊勢街道は、一号国道・二号国道とされました。「一号国道トハ東京市ヨリ神宮ニ達スル路線、二号路線トハ東京市ヨリ鹿児島県庁所在地ニ達スル路線」ということで、県内では一号国道は桑名郡長島村から神宮までの約二五里、二号国道は一号国道との重複を除き日永追分から鈴鹿郡坂下村までの約九里がその部分に当たるわけですが、日永追分から津や松阪を通り伊勢神宮に至る旧伊勢街道がそれから第二次大戦後まで一号国道でした。しかし、昭和二十七年に旧伊勢街道部分の一号国道は国道二三号と改定され、日永追分から鈴鹿峠への旧東海道に沿って国道一号が定められたのです。

参考文献

『三重県治概表』明治九年
『三重県統計表』明治十年・同十一年
『三重県統計書』明治十九年・大正九年
『三重県史』上編 弘道閣  大正七年
『内務省告示』明治十八年二月(平成二十四年追加)

明治九年「三重県治概表」より

明治九年「三重県治概表」より

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