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50 県庁が津に定められた理由


Q 現在の三重県は明治九年四月に成立し、ちょうど百二十年前になるわけで、三重県を番組に取り上げたいが、四日市市の方が人口が多いのに、なぜ津市に県庁所在地があるのですか。三重県と度会県が合併したときも県庁所在地について議論はなかったのですか。わかっていることを教えてください。

(平成八年四月 県外報道機関)
A 明治四年(一八七一)十一月、第二次の廃藩置県が行われ、現三重県域の北半分が安濃津県、南半分が度会県と定められました。安濃津県は、県庁を安濃郡津に置いていたのですが、翌年三月に県庁を三重郡四日市に移し、三重県と改称しました。この移転の理由は、四日市は「海陸湊合ノ地管内施政ノ都合輸入出或ハ郵便等事々便利」であるからとしています(『公文録』)が、裏面では旧津藩士の強い反発があったからではないかとも言われています。
 そして、六年になって、再び津に県庁を戻そうとします。当時、各県を更に統合する動きがあり、三重県も度会県との合併の話が既に出ていたからです。五月の県参事から大蔵省への「当県庁之儀ニ付建言」という文書には、「両県合併致シ候テモ」という言葉や「安濃津之儀ハ勢国中央ニテ運輸之便宜敷」と合併を意識した表現が見られます。また、四日市は県庁舎としていた旧陣屋が狭小なことや官員の住居に不足しており、それに対し、津は旧城下町で県庁に適した建物や官員の住居もあり、県庁を津に移しました。なお、この頃の四日市と津の人口については市街地の範囲が現在とは異なりますが、『第二回共武政表(明治十一年)』によれば、「四日市戸数二,一四〇 男四,〇一九人 女四,三二九人計八,三四八人」「津町 戸数二,六一九 男五,一二三人 女五,四九四人 計一〇,六一七人」とあり、若干津の方が多かったようです。
 津への県庁移転は、六年十二月に完了しました。しかし、県名は三重県のままでした。伊賀上野の政治家立入奇一は「他郡ノ称ヲ以テ県名トナスハ則名ノ正シキニ非ス」(『三重県改称之儀ニ付建白書』国立公文書館蔵)と県名の改称を訴えていますが、内務省では既に外国に開港された神奈川県・兵庫県にも同様の問題があり、度会県との合併話も進んでいたため、将来の課題として残されました。
 ところが、九年四月の三重県と度会県との合併については、三重県が旧度会県管轄を収受する形で実施され、度会県庁のあった山田に三重県の支庁を置き対応していきました。そのため、大きな問題もなく、県庁所在地の変更や県名の改称議論もなされなかったようです。

参考文献

『三重県史』資料編(近代1 政治・行政 I ) 昭和六十二年

当県移庁之儀ニ付建言

当県移庁之儀ニ付建言

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