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47 浦上キリシタンと津藩


Q 「津の殉教史」といったものを研究しようと思っています。明治の初めに長崎浦上村のキリシタンが大勢検挙され、津藩にも一部の人々が預けられたということですが、その内容はどんなものでしょうか。概要を教えてください。

(平成七年九月 県内個人)
A 長崎浦上村の人々は、江戸幕府の徹底したキリシタン弾圧政策下でひそかに信仰を伝えてきましたが、元治二年(一八六五)二月になって大浦天主堂の神父を訪れ、先祖伝来の信仰を表明しました。いわゆるキリシタンの復活と言われるものですが、これが、「浦上四番崩れ」すなわちキリシタン大検挙事件を引き起こすもととなります。「崩れ」とは検挙のことで、四回目の浦上キリシタン検挙事件ということです。慶応三年(一八六七)六月に中心人物など八三人が検挙されたのが発端となりましたが、これは、信徒の転宗の誓いや外国公使などの抗議もあって、検挙者を自宅に帰し、いったん終息しました。
 しかし、拷問に屈し転宗を誓った信徒たちは、間もなくキリシタンに立ち返るという意思を表しました。幕府が倒れ、明治の新政府になってもキリスト教は依然として厳禁で、五榜の高札にも「切支丹邪宗門禁止」を表示していました。そこで、政府は信仰心の強い浦上村の全キリシタンを検挙し、諸藩に配流(島流し)することを決定したのです。まず、慶応四年六月に中心人物一一四人が萩(長州)・津和野・福山の三藩に送られ、翌明治二年(一八六九)十二月には三,〇〇〇人あまりの人々が二一藩に分けられ流されました。三重県域の関係では津藩領と和歌山藩領で浦上村の人々を預かることになりました。
 津藩は、「異宗門徒人員帳」(『公文録』所収、国立公文書館所蔵)によると一五五人を預かり、大和古市出張所二二人、伊賀上野出張所五八人、伊勢管内七五人に分けています。伊勢管内の収容には、一志郡大村(二本木ともいう、現白山町)の旧代官所が当てられました。のちに配流された体験を語った「旅の話」(『切支丹の復活』後編・『浦上切士丹史』所収)では、「戸主二十二名は汽船で、大阪へ送られ、大和の古市、伊賀の上野等を経て、十二月十一日伊勢の二本木村に到着し、旧い役所跡に収容された。家は驚くほど大きくて広い。別段御用があるではなし、食物は十分支給されるし、何一つ不自由はなかった」と、収容当初の状況を回想しています。家族たちは戸主たちより遅れ、二本木に到着したのは三年正月元日の晩方だったようです。
 三月になると、一家族ごと村々の庄屋に預けられ、農業や日雇稼ぎをさせらていました。県庁に残される資料(『津藩ヨリ官省ヘノ伺并ニ指令書』)では、一志郡や安濃郡だけでなく、三重郡佐倉村(現四日市市)・奄芸郡福徳村(現関町)・飯野郡和屋村(現松阪市)などのかなり広範囲の村々に預けられたことがわかります。しかし、この間に逃亡者も出て、村預けは一年ほどで中止となり、再び二本木に収容されました。
 その後、津に移され説得もなされましたが、一ケ月で三たび二本木に帰されました。説得は「打ちもせねば、叩きもせぬ。ただ利害を説」く(「旅の話」)というもので、浦上の人々の信念は変わりませんでした。
 そうしているうち、外交上の問題もあって、政府はキリシタン禁制の高札を取り除く太政官布告(六年二月二十四日付け)を出しました。実質的に信教の自由が黙認され、浦上の人々は解放となったのです。
 このとき、一志郡二本木は既に度会県の管轄となっており、浦上の人々は布告の出される直前に山田(現伊勢市)に移されていましたが、四月二十五日いよいよ郷里に向かって出立し、翌五月二十日に浦上村の地に戻ったのです(『三重県史料』国立公文書館所蔵)。

参考文献

浦川和三郎『切支丹の復活』後編 昭和三年、昭和五十四年復刻 国書刊行会
浦川和三郎『浦上切支丹史』 全国書房 昭和十八年
松浦 栄「浦上キリシタンと三重県」『三重の古文化』61 平成元年
殉教史編纂会『津の殉教史』 カトリック津協会 平成八年

「異宗門徒人員帳」(津藩)」(「公文録」より)

「異宗門徒人員帳」(津藩)」(「公文録」より)

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