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37 斎藤拙堂の業績と門人


Q 津藩校有造館の三代目の督学であった斎藤拙堂(正謙)の業績と彼の門人について、わかっている範囲で概略を教えてください。

(平成九年一月 県内個人)
A 斎藤拙堂は、名を正謙といいますが、寛政九年(一七九七)に江戸で生まれ、長じてから幕府の昌平黌で学問を学び、二十四歳のとき藩校講師加りに任ぜられ津に来ました。文政六年(一八二三)講官となり、更に藩主高猷の侍読も兼ね、藩主に従ってしばしば江戸に行き、諸名士と交わり見聞を広め、その名をあらわしてきました。
 天保十二年(一八四一)郡奉行となり、悪質な大庄屋の人事刷新を行うなどし、郡奉行在職一年で藩校の督学参謀となり、弘化元年(一八四四)三代目の藩校督学となりました。
 拙堂は、大いに学則を改正し、多くの書籍を購入して文庫を拡張したり、演武場を設けて武技を鍛練させ、才能ある者を派遣して蘭学・医術・砲術などを学ばせるなど、有造館の面目を一新したため、有造館の名が天下に広まり、他藩からも子弟を派遣して学ばせることが多かったと言います。のち、将軍家定に謁見したとき、幕府の儒官登用の誘いを辞退して帰藩しています。
 拙堂の著書は、たくさんあるものの、未刊のものや散逸したものも多いということです。漢学者及び詩文家としては、中国・日本の学者や文人の文章を論じ批判した『拙堂文話』正続十六巻、月ケ瀬の梅を全国的に知らしめた『月瀬記勝』など、経世家としては、凶作対策を著した『救荒事宜』や『三倉私義』、海防策を論じた『海防策』や『制虜事宜』など、勤皇家・歴史家としては、『結城氏聨芳遺墨』や伊勢国司北畠家の事跡をあらわした『伊勢国司紀略』など、思想家としては、武士道と儒教に関する『士道要論』が主なもので、あらゆる分野にわたっています。
 拙堂は、漢文学者として有名ですが、特に藩校督学として新思想の輸入や新文明の移植をし、医学・兵事方面に多大の貢献をした人物としても視点を与える必要があります。彼は慶応元年(一八六五)六九歳で亡くなり、四天王寺に葬られています。
 拙堂の門人には、小原鉄心・三島中洲・鷲津毅堂・野村藤陰・玉乃世履・中山静逸・土井有恪・中内惇・川北長順、宮崎定憲など、多数いましたが、特に文人学者で個性のある書風の字や髑髏の画を多く残している土井有恪、拙堂が「足下はわが弟子にあらず、即ち飲友なり」といったという藩校の講官から明治政府の太政官大史となった川北長順、拙堂の最も忠実な門人であり、藩校の督学参謀から津中学校教員となり拙堂没後『拙堂先生小伝』を著した中内惇の三人が拙堂門下の三傑と言われています。

参考文献

『津市史』第三巻 昭和三十六年
斎藤正和『斎藤拙堂傳』 三重県良書出版会 平成五年

月瀬記勝

月瀬記勝

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