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28 県内の廻船史料


Q 三重県は、南北に長い海岸線を有しており、現在でも四日市港など日本有数の港を抱えていますが、江戸時代も海運業が盛んで、伊勢湾内での交流や他国とも交流があったのでしょうか。また、それを裏付ける史料はどのようなものですか。

(平成七年九月 県外個人)
A 三重県は、北勢から中勢・南勢・志摩と伊勢湾に面しており、紀北・紀南地域は太平洋に面しています。現在も伊勢湾内を航行する船舶は多く、名古屋港をはじめ三重県では四日市港などを中心として貿易が盛んです。
 江戸時代も伊勢湾内での海運流通が盛んで、例えば、伊勢商人の仕入れ木綿を運送した「白子廻船」はその代表です。これらの史料の多くは残念ながら散逸してしまいましたが、一部が鈴鹿市教育委員会に寄贈され、「竹口家文書」として保存されています。なお、その史料については、『鈴鹿市史』第五巻の「回船関係文書」に主要なものが翻刻されており、伊勢商人と白子廻船は木綿輸送を通して江戸と大きくかかわっていたことがよく理解できます。
 また、四日市の廻船史料として、四日市市立博物館の「井島文庫」にその史料があります。文書を見ると、当時、四日市と桑名が物資の輸送をめぐってたびたび争いを起こしていたことがわかりますし、四日市廻船の由来や本能寺の変のときの四日市廻船と徳川家康とかかわりなどもうかがえます。
 さらに、伊勢神宮との関係の中で、中世には「大湊廻船」が盛んでした。その活躍を裏付ける史料として、県の指定文化財となっている「大湊古文書」があります。特に、貞応二年(一二二三)の奥書をもつ「廻船式目」が有名で、永禄〜天正年間(一五五八〜一五九二)の廻船・造船関係の史料は、『三重県史』資料編(近世1)に主なものを掲載しています。
 次に目を転じて、三重県の最南端、熊野川の下流域の鵜殿村にも「鵜殿廻船」がありました。この廻船については、対岸の「新宮廻船」との競合もあったようで、その積荷は材木や炭に関するものだったようです。
 なお、廻船ではありませんが、志摩半島から尾鷲にかけてはリアス式海岸が続くため天然の良港ができ、大坂から江戸まで航行する船の「日和待ちの港」もたくさんありました。そのような意味では、三重県は廻船と切っても切れない関係にあったと言えます。

参考文献

『鈴鹿市史』第二・五巻 昭和五十八・六十一年
井上正秀「図書館所蔵文書について」『四日市市史研究』創刊号 昭和六十二年
『三重県史』資料編(近世1) 平成五年
上村雅洋「新宮鵜殿廻船と炭木材輸送」『近世海運史の研究』吉川弘文館 平成六年

「諸廻船法令条々」(貞応二年)(伊勢市大湊町振興会蔵)

「諸廻船法令条々」(貞応二年)(伊勢市大湊町振興会蔵)

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