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27 桑名、七里の渡し


Q 江戸時代の東海道で江戸から京都までの間に、浜名湖の湖口部にあった「今切の渡し」と桑名の「七里の渡し」の二ケ所に船渡しがあったとのことですが、「七里の渡し」の方がはるかに規模等が大きかったと言います。この「七里の渡し」の概要を聞かせてください。

(平成九年七月 県内個人)
A 江戸時代、尾張熱田宿から伊勢桑名宿へは、熱田宿の宮の渡し場から海上七里を舟で行くか、熱田宿から陸路で佐屋宿へ出て佐屋湊から水路三里を舟で行くかの二ル─トがありました。
 この海上七里を舟で渡ることを七里の渡しといい、俗称として桑名の渉・間遠の渡り・加古の渡しとも言われました。『勢陽五鈴遺響』の「桑名渉」の項には、「国府(桑名府)ノ東北ヨリ尾州愛智郡熱田駅ニイタル海路七里余東街道ノ官道ナリ、俗桑名ノ渉ト云、船ノ岸ニ纜ス処ヲ船場ト称シ大鳥居一基ヲ建、及船標的ノ為ニ灯籠ヲ挑ケ置リ、又看監所アリ乗船ノ料ヲ看板ニ書シテ掲ク、人馬及行李ニ其直(値)ノ貴賤アリ定則トス、又諸侯公卿東関往還スルハ城主ヨリ官船ヲ装テ饗セラル、凡テ風濤ノ患ナシ(以下略)」と説明されています。
 航路については、『「七里の渡し」考』で種々検討されており、以下、それによることにします。
 『熱田より桑名迄 海上絵図』(正確な年代は不明ですが、元禄十年〔一六九七〕から宝永四年〔一七〇七〕頃と推定される絵図、舞鶴図書館・西尾図書館所蔵)には、朱線で六通りの航路が描かれています。そのうちの一つは佐屋宿からのもので、熱田〜桑名には(1)「此川筋 鍋田川共讃岐様共申候」、(2)「此新川 潮時能節渡海仕候」、(3)「まや川筋 此川筋潮時能節渡海仕候」、(4)「此朱筋 潮時能節渡海仕候」、(5)「此朱筋 潮時善悪共ニ渡海仕候」と注記された五通りの航路がありました。簡単に言うと、(1)〜(3)は陸地寄りの航路で、川筋を利用したものです。(1)の「讃岐様」は高松藩主が初めて通行した航路と言われ、そう名付けられたようです。しかし、これら(1)〜(3)の航路は土砂の堆積や新田開発に伴い通行困難となり、十八世紀中頃以降途絶えたようです。(4)・(5)が七里の渡し本来の海上航路で、(4)は新田や砂州に沿う海上七里の航路、(5)はやや沖を通る海上九里ないし十里の航路です。一般的には七里の渡しと言われながらも、航路には様々あったのです。
 なお、『久波奈名所図会』には、「尾州宮まで海上七里、潮の満干によりて行程定らず、船の賃銭、寛永年中以来古今増減あり」として、寛永二年(一六二五)から寛政十一年(一七九九)までの乗合一人分の賃銭が記録されています。
 また、七里の渡しは約四時間かかり、風波の激しいときや船に弱い者にとっては乗りにくかったようです。文政四年(一八二一)には大名の参勤交代の道筋が指定され、西国大名は七里の渡しか佐屋渡しのいずれかを通るよう義務づけられましたが、距離の短い佐屋渡しを望む大名の方が多かったということです。

参考文献

野田千平『「七里の渡し」考』 名古屋市教育委員会 昭和四十八年
安岡親毅『勢陽五鈴遺響』1 三重県郷土資料刊行会翻刻 昭和五十年
『影印校注 久波奈名所図会』上巻 久波奈古典書籍刊行会 昭和五十二年
『東海道分間延絵図』第十六巻 解説編 東京美術 昭和五十八年

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