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22 鳥羽藩内藤氏の改易


Q 江戸芝の増上寺で起こった忍傷事件は鳥羽藩の藩主が引き起こしたもので、その結果、内藤家が断絶させられたということですが、その間の事情を教えてください。

(平成八年十月 県内個人)
A 鳥羽藩は、最初は九鬼氏の二代、次に内藤氏の三代で短期間の幕府領となり、さらに土井氏・松平氏・板倉氏が各一代と続き、最後に稲垣氏が八代続き、明治四年(一八七一)に廃藩となった譜代の小藩であります。二番目に鳥羽藩主となった内藤氏は、三代目の忠勝のときに御家断絶となっています。
 忠勝は、承応三年(一六五四)に内藤飛騨守忠政の次男として生まれました。兄の忠次が病により世継ぎを辞退していたため、嫡子となっていました。
 さて、その断絶までの動きを『徳川実紀』で見ていきますと、延宝元年(一六七三)九月十一日「志摩国鳥羽城主内藤飛騨守忠政遺領三万五千二百石を分て、長子和泉守忠勝に三万三千二百石、二子虎之助忠知に二千石たまふ」、十月二日「内藤和泉守忠勝雁間詰命ぜらる」とあり、延宝四年から五年には日光山の祭礼奉行となっています。そして、延宝八年六月江戸芝の増上寺で四代将軍家綱の死去による大法会が営まれることとなり、同月四日「内藤和泉守忠勝増上寺御法会に方丈口番命ぜら」れましたが、六月廿六日「この日増上寺の法場に於て、内藤和泉守忠勝失心し、佩刀をぬき、永井信濃守尚長をさしころす。(中略)関東郡代伊奈兵右衛門忠易へめしあづけられる」という事件が起こりました。同月廿七日「この日内藤和泉守忠勝西大久保清龍寺にて死を賜ふ」と処罰され、七月九日に「さきに三縁山にて永井信濃守尚長を切害したる内藤和泉守忠勝が封地志摩国鳥羽城三万三千二百石并に府邸収公せらる」となったのです。
 この忍傷事件は、忠勝の失心ということとなっていますが、『鳥羽市史』によりますと、内藤家と永井家の江戸上屋敷は隣り合っており、忠勝も尚長も三十歳前後と若く、吉原通いの舟の行き違いのときのにらみ合いや永井家の高く建てた茶室による紛糾など、犬猿の仲であったといいます。そして、増上寺で四代将軍家綱の大法会のときの御門警護や非時振舞いに関し、尚長から忠勝の役目に対する皮肉やはかりごとなどによって、忠勝は面目を失い、腹にすえかねた忠勝は、尚長の詰めている部屋に押し入り尚長を切り、とどめをさしたというものです。
 こういう話となると、二十一年後の元禄一四年(一七〇一)に起こった江戸城松の廊下の忍傷事件が思い出されますが、このとき吉良上野介に忍傷に及んだ浅野内匠頭長矩の母親が、実は和泉守忠勝の実姉ということで、何かしら因縁を感じさせるものがあります。

参考文献

『国史大系 徳川実紀』第五編 吉川弘文館 昭和五十一年
『鳥羽市史』上巻 平成三年

系図

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