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18 藤堂高虎の関係史料


Q 三重県は、江戸時代に藤堂家が領有していた地域が多くありますが、その始祖である藤堂高虎の略歴や高虎に関する史料は、どこにどれぐらいあるのでしょう。概略を教えてください。

(平成八年七月 県外個人)
A 三重県の江戸時代は、多数の藩領が複雑に交じりあい、領主の交代もしばしば行われました。その中にあって、現在の津市近辺や伊賀地域は、藤堂家が十二代、明治四年七月の廃藩置県まで支配をしました。その始祖が藤堂高虎です。藤堂高虎の経歴や事跡については、寛延四年(一七五一)序の『宗国史』、これ以降に成立したと考えられる『高山公実録』、文政二年(一八一九)の『聿脩録』などに詳しいですが、『津市史』や『三百藩藩主人名事典』などにも紹介されています。
 それらによって、簡単に略歴をあげてみますと、高虎は、もとは近江国の藤堂村で弘治二年(一五五六)に生まれたと伝えられ、十五歳のとき浅井氏に属する姉川合戦が初陣でした。その後、主君を代えますが、天正四年(一五七六)にはのちの豊臣秀長に、秀長の死後はその子秀保に仕えました。その秀保が死去し、主家を失った高虎は高野山に入りました。しかし、秀吉に下山を勧められ、伊予宇和島七万石の領主として秀吉直属の大名となりました。
 慶長三年(一五九八)に秀吉が死去したのちは、徳川家康に近づき、関ケ原の戦いでは徳川方に所属し、その功績により二十万石の大名となり、伊予今治に城を築きました。それ以降、築城の名人として膳所城・江戸城をはじめとして、いくつかの城の築城に関わりました。
 慶長十三年(一六○八)に伊賀・伊勢国に封ぜられ、二十二万石九百石を領しました。また、大坂の陣でも活躍し加増されたり、ほかでも所領が増え、結局三十二万石三千九百余石の大大名になりましたが、寛永七年(一六三○)に病にかかり七十五歳の生涯を閉じました。
 現在、その波瀾万丈に飛んだ人生を描いた小説なども刊行されています。その典拠となる史料は、やはり前述の『宗国史』・『高山公実録』・『聿脩録』などです。
 なお、藤堂高虎関係の文書は、一括して『三重県史』資料編(近世1)に「藤堂高虎発給文書」として収録されています。藤堂本家の史料をはじめ多くの史料が関東大震災や第二次世界大戦で焼失し、東京大学史料編纂所の「影写本」などでしか知ることのできないものもありますが、それらの史料を一つ一つ分析し、前述の史料などと合わせていくことで、高虎の人物像もより詳細になると考えられます。

参考文献

『補註国訳聿脩録』上・下 高山公三百年祭会 昭和五年
『津市史』第一巻 昭和三十四年
『宗国史』上・下巻 上野市古文献刊行会翻刻 昭和五十四・五十六年
『三百藩藩主人名事典』三 新人物往来社 昭和六十二年
『三重県史』資料編(近世1) 平成五年

高虎発給文書「知行方目録」(名張市教育委員会蔵)

高虎発給文書「知行方目録」(名張市教育委員会蔵)

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