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15 服部半蔵と家康


Q 江戸城の半蔵門という名前は、伊賀の忍者に関係があると聞いたのですが、その忍者の頭領であったという服部半蔵とはどのような人物ですか。

(平成八年六月 県外個人)
A まず、『上野市史』(昭和三十六年発行)から概要を見てみましょう。
 服部正成(通称半蔵)は、天文十二年(一五四二)に保長の長男として生まれ、父のあとを継いで徳川家康に仕え、慶長元年(一五九六)五十五歳で没しました。
 服部半蔵の先祖は、伊賀国花垣村(現上野市)余野に居住し、代々伊賀忍者の首領的存在であったと伝えられています。父保長は、足利家に仕官していましたが、永禄年間(一五五八〜一五七〇)の初め頃、徳川家に再仕官していることから、半蔵は徳川家の譜代の家来の子であると言えます。父の死後、家康に仕え、故郷の伊賀者や甲賀者を動かして遠江掛川城攻め・姉川の合戦・三方原の戦いなどに従軍し、戦功をたてています。
 特に、天正十年(一五八二)の本能寺の変のとき、家康は半蔵など数名の家来を連れて泉州堺に来ていましたが、敵陣を破って安全に帰国する当てがありませんでした。そのとき、半蔵は甲賀・伊賀国境の多羅尾峠を越えて伊賀地に入り、忍者たちの救援を得て岡崎に帰るという策を家康に進言しました。家康の同意を得ると、直ちに甲賀の多羅尾四郎兵衛光弘を訪ね、家康一行の保護誘導を頼むとともに、高畑山頂に狼煙を挙げて甲賀・伊賀の忍者三百名余りを召集し、それらを自ら指揮しました。そして、家康ら一行を警護しながら、鹿伏兎の難所を越えて北伊勢に至り、この沿岸から船で伊勢湾を渡り、無事岡崎城にたどり着いたということです。岡崎帰城後、家康は、鹿伏兎越えの際に警護役に当たった甲賀・伊賀の忍者三百余名を、そっくり召し抱えて徳川家の隠密団とし、半蔵にその隠密頭の役を命じました。このような忠勤により遠江国内において八千石が与えられ、家康の関東入国(天正十八年)ののち、命ぜられて与力三〇騎、伊賀同心二〇〇人を支配しました。
 江戸城の西門付近には、二代目半蔵の役宅があって、有事の際に半蔵に守らせる意味で半蔵門とつけられたということですが、同時にお庭番(隠密)の通用門になっていたとも言われています。
 なお、上述した家康の伊賀越えについて、比較的信頼度が高いと見られている資料として、『三重県史』資料編(近世1)収録の「石川忠総留書」(『大日本史料第一一編之一』)があります。この中には、服部半蔵が家康の御供の一人であることは確認できますが、活躍したという記述は見られません。また、最近は、その後の伊賀者たちの待遇についても、『上野市史』の記述とは異なった見解が出されています。

参考文献

奥瀬平七郎「伊賀流忍術」『上野市史』 上野市 昭和三十六年
『新訂 寛政重修諸家譜』第十八 続群書類従完成会 昭和四十年
和田忠臣「家康伊賀越えの真相」『図説 伊賀の歴史』 郷土出版社 平成四年

家康の行路略図(「石川忠総留書」より)

家康の行路略図(「石川忠総留書」より)

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