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11 神戸氏の盛衰


Q 私の祖先が神戸友盛に仕えていた武士であったということを祖父から聞きました。神戸氏は、現在の鈴鹿市神戸を拠点として活躍したそうですが、その概略でもいいですから教えてください。

(平成八年八月 県外個人)
A 関実忠(関氏の祖)の六世にあたる関盛政は、十四世紀中頃、伊勢国鈴鹿郡関谷に拠って勢力を伸ばし、五人の子を亀山・神戸・峰・鹿伏兎・国府の各城に配して北勢第一の豪族に成長していきます。その神戸に配されたのが長男盛澄で、神戸氏の祖となります。
 神戸盛澄は、十四世紀後半に沢城を築城して鈴鹿・河曲郡のうち二四郷を支配しました。二代実重、三代為盛と続きますが、この為盛は国司北畠教具の娘を妻としていたことと子がなかったため、北畠材親の子具盛を養子として後を継がせました。
 四代具盛は、十六世紀中頃に神戸城を築き、ここに拠って神戸家の勢力伸展のため、娘二人を三重郡の楠氏と神戸家六奉行の一人高岡城主山路紀伊守に嫁がせ、次男を北勢の赤堀氏の養子とし、北勢方面から近江の東部まで武名をとどろかせました。
 五代長盛の頃は楠氏と赤堀氏とともに北勢や近江北部に兵を出し、時には関氏とも戦っています。六代利盛は若くして武名が高く、近江の佐々木氏の三重郡柿城攻めに伴う柿城救援に出陣したとき、神戸家六奉行の一人岸岡城主佐藤中務丞の謀叛に遭い難儀をして神戸城を奪還しています。
 七代友盛はもと土師福善寺の住職でありましたが、兄利盛が二十三歳で早世し、子もなかったので、還俗して神戸家を継ぎました。永禄二年(一五五九)の塩浜合戦、同年の茂福合戦、同二・三年頃の神戸城攻防戦いなどで友盛の武名を高くしました。長盛の頃から不仲であった関氏とは、六角家の重臣で日野城主蒲生定秀の娘二人を友盛と関盛信の妻にする婚姻政策により仲を戻し、六角氏の味方となりました。しかし、永禄十一年(一五六六)の信長の第二回目の伊勢侵攻により、友盛は信長三男信孝を養子とする条件で和睦し、以後、信長のために働きましたが、元亀二年(一五六八)信長により隠居させられ、この年をもって信孝が家督を継ぎました。
 八代信孝は、長島の一向一揆討伐・神戸城下経営・天守閣築造などを手掛けましたが、父信長が本能寺の変で討たれて以後は、秀吉との勢力争いに負けて、天正十一年(一五八二)知多半島野間の大坊で切腹を遂げます。
 一方、友盛は、天正十二年(一五八三)頃、隠居していた沢城を脱出し、安濃津城の織田信包を頼りました。慶長五年(一六〇〇)に客死しますが、神戸家名を残すために、従弟の高島勝政の息子政房を養子としました。政房は、蒲生家に仕え、神戸外記と名乗ったということです。

参考文献

伊藤清太郎『神戸平原地方郷土史』前編 河曲同窓会 昭和十一年
『関町史』上巻 昭和五十二年
『鈴鹿市史』第一巻  昭和五十五年

神戸城跡

神戸城跡

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