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10 中世の土豪、乙部氏


Q 中世の伊勢地方について調べています。中でも、長野氏の被官であった乙部氏について知りたいのですが、どの程度わかっているのでしょうか。教えてください。

(平成八年一月 県外個人)
A 乙部氏が史料にあらわれてくるのは、南北朝時代からです。「伊勢国乙部源次郎政実」という人物が、建武二年(一三三五)以降、足利尊氏方の武将吉見範景に従い、伊勢や京都などで南朝方と戦っています。しかし、それ以前の活動や出自については不明で、系譜をたどることもできません。
 一般に、乙部氏は長野氏の被官として知られていますが、室町時代前半には長野氏に属さない独立した存在であったと考えられます。永享十一年(一四三九)五月の大覚寺義昭追討勢の中に、「三条殿披官乙部」とあることや、長禄二年(一四五八)、長野満寿丸(政高)の安濃津代官職去り渡しを実現するため、祭主に合力を命じられた近隣の武士たちの一人に「乙部兵庫頭」がいることなどから、それなりの力を持っていたことがうかがわれます。
 その後、天文十五年(一五四六)十一月、屋敷四ケ所を少仁坊に安堵した人物に「乙部藤政」がいます。長野氏嫡流の通字である「藤」を名乗りの一字としていることから、おそらくこの時期、つまり十六世紀以降は長野氏の被官となっていたものと思われます。弘治三年(一五五七)、伊勢参宮に向かう山科言継は、一身田で一宿し、翌日は安濃津・八幡・小森を通って雲出に至るまでを乙部衆十人に送られています。以上が、史料から見ることのできる乙部氏の動向です。
 また、乙部藤政が築いたと伝えられるのが渋見城で、永禄年中(一五五八〜一五七〇)織田信長の伊勢侵攻に対し、平地の乙部城では戦略上不利なため、山地の渋見に場所を移し築城したと言われています。城跡は津市街の西にある独立丘陵にありました。北側に堀と土塁が確認され、中心となるのは西側に土塁をめぐらした西郭とその東に一段高くなった東郭の二つで、南東部には奥屋敷と呼ばれる所も残っていましたが、近年、発掘調査のあと宅地となってしまい、今はその遺構を見ることができません。
 このほか、津市中河原の潮音寺には、乙部藤政の守護仏と伝えられる金銅製の阿弥陀如来立像が伝来しています。像高三九Cmの大きさで、もとは善光寺式阿弥陀三尊の中尊でしたが、現在は光背や脇侍は失われています。室町時代頃の作と考えられ、津市指定文化財となっています。

参考文献

飯田良一『国人領主長野氏試論』 昭和五十五年
『美里村史』上巻 平成六年

渋見城跡

渋見城跡

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