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9 伊勢国司北畠氏の特徴


Q 今から約六五〇年ほど前、三重の中世社会のことを考えてみるとき、伊勢国司家と呼ばれた北畠家が果たした役割は大きいとされていますが、この一族の特徴はどのようなものでしょうか。

(平成八年八月 県内個人)
A 北畠氏は、南朝方の中心的な存在であった北畠親房の子顕能に始まり、天正四年(一五七六)当時の大御所北畠具教をはじめとする一族の死によって実質的に滅亡するまで、南伊勢五郡(一志・飯高・飯野・多気・度会)を中心に勢力を保っていた戦国大名です。歴代の当主は、「本所」とか「多気殿」などと呼ばれていましたが、特に「多気殿」という呼称は、北畠氏の本拠が現在の一志郡美杉村に位置する多気谷にあったことによります。北畠氏の居館跡は、現在北畠神社となっていて、最近、美杉村の教育委員会によって、学術的な発掘調査が進められています。その結果、平成九年度の第五次調査では十五世紀前半期頃に築かれた大規模な石垣と居館への入口とみられる階段状遺構が発見されました。この石垣は、中世の城館としては、現在のところ最古のものであるとされています。このことは、北畠氏の居館が当時の最新技術で築かれていたことを示しています。
 伊勢国司として知られる北畠氏ですが、幕府へ反旗を翻し戦死した北畠満雅の子の教具から政勝(政郷)・具方(材親)の三代のときは、断続的ですが、伊勢国の守護職でもありました。そうした立場を足掛かりに、安濃郡の国人領主長野氏や強固な自治組織を持つ外宮門前の山田三方との抗争を繰り返しながら、支配領域の拡大に腐心しました。また、神宮領の自領への取り込みも積極的に押し進めています。
 反面、村上源氏中院流であった北畠氏は、最後まで公家としての意識を持ち続けた大名でもありました。それは、歴代の当主が用いた花押(サインの一種)の形として、武家ではなく、公家の間で流行していた形を使っていたことに端的にあらわれています。また、多気での連歌会の興行や田丸城(現玉城町)での猿楽興行など、北畠氏の文化的な側面も当時の記録に散見することができます。

参考文献

小林 秀「伊勢国司北畠氏の花押について」『三重県史研究』第九号 平成五年
『玉城町史』上巻 玉城町教育委員会 平成七年
『多気北畠氏遺跡』 美杉村教育委員会 平成九年

北畠氏館跡の石垣

北畠氏館跡の石垣

北畠国司家の花押(「三重県史研究」9より)

北畠国司家の花押(「三重県史研究」9より)

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