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4 「杖突坂」とその由来


Q 三重県内の地名の由来もいろいろな伝承がありますが、四日市市采女町にある「杖突坂」は、どのような由来から名付けられたのでしょうか、教えてください。

(平成七年十一月 県内個人)
A 杖突坂は、「杖衝坂」(『三国地誌』)とも書きますが、『伊勢名勝志』三重郡の山川の項に「杖突坂 采女村ニアリ官道ニ属ス、伝へ云フ倭武尊東征ノ時、桑名郡尾津村ヨリ能褒野ニ到ルノ時、剣ヲ杖ツキ此坂ヲ踰エ玉フ故ニ名ヅク(以下略)」と記述されており、『勢陽五鈴遺響』にも同様の説明があります。いわゆる日本武尊伝説地の一つです。
 日本武尊(ヤマトタケルノミコト、『古事記』では倭建命と書く)は、実在の人物ではなく、大和朝廷が勢力を西や東に延ばしていったときの多くの勇者の話を一つにまとめた英雄伝説であると言われていますが、三重県では地名由来の説話として関係しています。
 日本武尊が幾多の苦難の末に東国を平定し、帰途につきましたが、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受け、病にとりつかれてしまいます。そこで、大和に帰るため、伊勢国に入り、三重郡采女村あたりまで来たとき、急坂を杖をついてようやく登れたので、その坂を「杖衝坂」と言ったということです。さらに、少し進んだとき、「吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり」と言い、その地を「三重」と言うようになったとも伝えられています。三重郡の由来です。そして、能褒野にたどり着いたところで亡くなったので御陵をつくると、日本武尊は、大きな白鳥と化して、大和をめざして飛び去っていったというお話です。
 この杖突坂は、内部川より約〇・五キロメートル南にあって坂の上までの距離約一〇〇メートル、比高約二〇メートル強の東海道の道筋の中でも急坂となっています。大正の末期頃、この坂を自動車が登り切れないので、坂の下の民家の牛の力を借りて登ったというエピソードも残されています。また、この急坂を登りつめたところに、日本武尊伝説地の一つである御血塚の祠があり、前記の『伊勢名勝志』の同じ項に「(前略)側ニ血塚アリ尊ノ足ヨリ出デシ血ヲ封ゼシ処ナリト云フ」と記述しています。
 この坂は、自動車をはじめ歩行者にも難所であったので、昭和の初期頃、丘陵の北側の中腹にゆるやかな坂道を新設し、これを「昭和坂」と称して利用しました。現在の国道一号線が走っているところです。

参考文献

宮内黙蔵『伊勢名勝志』 明治二十二年 三重県郷土資料刊行会復刻 昭和四十九年
安岡親毅『勢陽五鈴遺響』 三重県郷土資料刊行会翻刻 昭和五十年
藤堂元甫「三国地誌」『定本三国地誌』上巻 上野市古文献刊行会翻刻 昭和六十二年
『歴史の道調査報告書IV(東海道)』 三重県教育委員会 昭和六十二年

坂

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