2 古代の有力氏族、伊勢大鹿氏
Q 『日本書紀』や『古事記』に出てくる伊勢大鹿氏とは、どういう人だったのでしょうか。伊勢国のどこにいたのですか。大きく二つの意見があるようですが、その概要を教えてください。 (平成八年二月 県外個人)
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A 『日本書紀』の敏達天皇四年(五七四)の条に「伊勢大鹿首小熊」という人物が見えます。その娘の菟名子は、采女として出て同天皇の夫人となり、太姫皇女(桜井皇女)と糠手姫皇女(田村皇女)の二人の皇女を生んだというのです。『古事記』にもほぼ同様の記述があります。なお、この糠手姫皇女は、のちの舒明天皇の母です。そうしたことで、大鹿氏は伊勢国では天皇系譜につながる唯一の古代氏族として注目され、伊勢国のどこを本貫地(律令制で戸籍に記載された地、転じて出身地、本籍地)にしていたのか、古くから議論があります。 多気郡の相可(現多気町)を大鹿氏の本貫地とする説は多く、江戸時代から続いています。外宮神官度会延経の『神名帳』考証を受けた安岡親毅の『勢陽五鈴遺響』では、相可の相鹿上神社の祭神が天児屋根命で、「相鹿大鹿相同シキニ拠テ大鹿首ノ始祖ハ天児屋根命ナリ……大鹿ハ今ノ相可ト称スルニ相同ク大鹿首ノ本貫ノ地ナルヲ其祖神ヲ祀ル処ナリ」と記しています。相可と大鹿の音が似通っていることと相鹿上神社の祭神を主な根拠としていますが、これを受けた記述は多くあります。平成四年発行の『多気町史』でも、「伊勢大鹿首は、異説もあるが、相可付近に住んでいた当地方の豪族であったと考えられる」としています。また、伊勢神宮の創祀を考える上で高見峠を越えて大和と伊勢を結ぶ交通の要衝である相可を強調する研究者もいます。 一方、北伊勢の河曲郡(現鈴鹿市)に大鹿氏の本貫地があったという説も多く、古くからありました。本居宣長は『古事記伝』の中で「伊勢大鹿首は、神名帳に伊勢ノ国河曲ノ郡大鹿ノ三宅ノ神社あり、此ノ地より出たる姓なり」とし、神宮神官の御巫清直も「伊勢式内神社検録」(大神宮叢書『神宮神事考証』所収)の「河曲郡大鹿三宅神社」の項で「其(大鹿首)子孫久シク連綿シテ……其大鹿氏ノ居処ヲ大鹿村ト称ス。本郡ニ隷セル国分村是ナリ」としています。これらの説に関係する文献史料としては、『延喜式 神名』のほか、『太神宮諸雑事記』の治承三年(一〇六七)十二月条に、以前のこととして「河曲神戸預大鹿武則」の名が見え、『皇大神宮建久已下古文書』では山辺御薗(現鈴鹿市山辺町)内の大鹿村は国分寺領と号すとあります。 こうした文献史料だけでなく、『神戸史談』や『鈴鹿市史』では、現国分町付近に大鹿山古墳や大鹿氏の伝承にちなむ古墳のあることを取り上げ、考古学の立場からも言及しています。さらに、最近では、岡田登氏によって、詳しい文献分析と発掘調査などの考古学的成果を踏まえた論考がなされています。以下、その概略を紹介することにします。 まず、「北伊勢地方の主要交通路(東海道)に本貫をおく伊勢大鹿氏は、景行朝頃に中央と絆を深め、雄略朝には采女(三重の采女)を出し、さらに安閑朝に屯倉が設置され、その管理者になった」と、書紀記載以前の大鹿氏について考察されています。そして、前述のように伊勢では天皇系譜につながる唯一の氏族となり、壬申の乱では大海人皇子を助け、氏寺(大鹿廃寺)の創建に際しては、天皇と関係の深い川原寺に用いた瓦と同式の瓦の使用が許されたというのです。また、伊勢国府の造営に協力し、国分二寺の創建では「率先して自らの本貫地を提供して、その造営に助力した」とまとめられ、現在進めている伊勢国府跡・伊勢国分寺跡周辺の発掘調査の成果が取り入れられています。 多気郡・河曲郡のいずれに大鹿氏の本貫地があったとしても、古代伊勢国では重要な働きをしていた有力な氏族であったと考えられます。 |
参考文献
仲見秀雄「古代の神戸」『神戸史談』第六号 昭和四十二年
『鈴鹿市史』第一巻 昭和五十五年
岡田登「伊勢大鹿氏について上・下」『史料』一三五・一三六号 皇学館大学史料編纂所 平成七年
大鹿廃寺出土瓦(「調査概報」より)