二日坊宗雨
俳人伝
二日坊宗雨(ふつかぼうそうう)1711~1775
二日坊というのは号で、姓は菊地、名を宗雨または揚立(ようりつ)と称し、晩年には帰旧法子(ききゅうほうし)とも号した。津の江戸時代中期の俳人であり、津に俳壇という体のものが出来たのは、二日坊宗雨の力によるといってよ。「阿漕雲雀」によると、家は医者だったが彼は医業を修めず、俳諧(はいかい)一途の生涯を送った。 芭蕉敬慕の念を持ち、四天王寺境内に芭蕉文塚を建立、その記念集として『文塚』を刊行した。二日坊の没後は、坐秋、林可らによって一門が継承されたようである。