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平福百穂 ひらふくひゃくすい

生没年

1877-1933

出身国

日本

記事

平福百穂  「太公望図」 コレクション名品選のページ(山口泰弘)
山口泰弘 平福百穂|太公望図 友の会だよりno.23 1990.3.24
ひるういんどno.64(1998.10) 東俊郎 『平福百穂「太公望」(所蔵品から)』
ステキ新聞3号うら 2004.7

略歴

1877(明治10)年  12月28日、秋田県仙北郡角館町に生れる。
             本名・貞蔵。
             父・平福穂庵は円山四条派の画家で染物屋を家業としていた。

1890(明治23)年  3月、角館小学校卒業。
             12月、父穂庵没(47歳)。

1891(明治24)年  後援者・瀬川安五郎(盛岡の巨商で穂庵の恩人)のすすめにより、本格的に絵の勉強を始める。
             百穂と号す。

1824(明治27)年  1月、上京して川端玉章に入門し、塾生として寄寓する。
             結城素明を知り、美術学校入学を勧められる。

1897(明治30)年  2月、東京美術学校日本画選科第二学年に編入学。
             主として川端教室で学ぶ。

1899(明治32)年  7月、美術選科卒業。郷里角館に帰る。

1900(明治33)年  春、福井江亭、結城素明と共に自然主義を標榜して无声会を組織し、3月第一回展を開催、以後大正2年に解散するまで毎回作品を発表する。

1901(明治34)年  4月、上京して向島の素明宅に寄寓。
             文芸雑誌 「新声」 の表紙絵挿絵などを描く。

1902(明治35)年  歌人伊藤左千夫、長塚節らと相知り、更に正岡子規を知る。
             又、東京美術画稿西洋画科選科に入学し、一年たらず長原孝太郎についてデッサンを学ぶ。

1903(明治36)年  神田に下宿する。
             電報通信社に挿絵画家として入社(明治38年退社)。
             11月、創刊の平民新聞にも関係し、即興的なコマ絵を描く。

19048明治37)年  太平洋画会研究所が開かれ、夜間部にてデッサンを研究し、小杉未醒を相知る。

1906(明治39)年  斎藤茂吉、島木赤彦らを知り、根岸派の機関雑誌 「馬酔木」 の表紙や挿絵を描く。

1907(明治40)年  5月、美術雑誌 「方寸」 創刊、同人となる8月、北海道に遊びアイヌの写生数点を无声会に発表し、専門家の注意をひく。
             12月、国民新聞社に入社。
             以後20年間同社に籍を置き、相撲スケッチ、議会スケッチなどに活躍して人気を博する。

1908(明治41)年  10月、歌誌 「阿羅々木」 創刊され表紙絵を描く。
             安藤はると結婚、青山に住まう。

1910(明治43)年  1月、長男一郎生まれる。
             3月、離婚する。

1911(明治44)年  12月、後援者・瀬川安五郎没。
1913(大正 2)年  5月、鷹野ますと結婚。
             この年、師・川端玉章没(72歳)。

1914(大正 3)年  5月、大正博覧会に 「鴨」 出品。
             10月、第八回文展に 「七面鳥」 を出品、
             共に好評を得て、出世作となる。

1915(大正 4)年  春、川端龍子、小川芋銭、森田恒友らと共に珊瑚会を組織、4月に第一回展開催。

1916(大正 5)年  5月、結城素明、鏑木清方、松岡映丘、吉川霊華と金鈴社を組織する。

1917(大正 6)年  10月、第十一回文展に 「予譲」 出品、特選となる。
             画壇における地位を確立。
             この頃から国民新聞の勤務自由となる。

1918(大正 7)年  田口掬汀と共に第四十一議会に帝国美術館建設建議案提出のため奔走する。
             8月、光琳社から 「百穂画集」 を刊行。

1919(大正 8)年  8月、世田谷三宿に画室を建て、画塾白田舎を創設、後進の指導に当たる。
             9月、帝展開設され、無鑑査に推薦されるがこの頃官展に興味を失っていたので、暫くは帝展に不出品。

1920(大正 9)年  11月、九州大演習陪観、東宮の命により「耶鷹渓所見」「大演習実写」各五帖を描き献上する。

1922(大正11)年  6月、金鈴社解散。
             9月、第四回帝展審査委員に任命され、以後毎年委員となる。

1925(大正14)年  5月、朝鮮美術展審査のため京城に赴き、更に満州に遊ぶ。

1927(昭和 2)年  1月、世田谷三宿に新居落成し移転する。
             11月、歌集「寒竹」 刊行。

1928(昭和 3)年  9月、秋田に赴き、御大礼記念として秋田市より献納の画帖「秋田十二景」を揮亳。

1930(昭和 5)年  2月、ローマ日本美術展の用務を帯び、文部省在外研究員として、松岡映丘と共に渡欧、満州を経て11月帰国する。
             7月、帝国美術院会員を拝命。
             又、「団栗集」(滞欧記念スケッチ集)を刊行。

1931(昭和 6)年  1月、小堀鞆音の後任として東京美術学校教授に任ぜられる。
             2月、従六位に叙せられる。

1933(昭和 8)年  4月、白田舎塾第一回展開催。
             10月、帝展審査員を命ぜられたが、この頃から気分勝れず、審査に従事しなかった。
             10月下旬、次兄の喪に秋田県横手町に赴き、10月30日、脳溢血のため逝去。享年57歳。

館蔵作品

作品名 制作年 材料 寸法
太公望図 1927(昭和2)年 紙本墨画淡彩 171×51.0
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