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「仮の親子」形変え継承―明治期以前の「お歯黒」


1983(明治16)年『各郡習俗慣例取調書』の一部

1983(明治16)年『各郡習俗慣例取調書』の一部


 2000年のハッピーマンデーの導入によって、成人の日は1月第2月曜日となった。多くの地方自治体や企業で成人式が行われ、20歳になる若者を祝福する。この日、女性は華やかな衣装に身を包んで、人生の晴れ舞台を飾る。
 では、明治期以前の女性の成人式とはどのようなものだったのか。女性の成人式は「成女式」ともいい、少女からおとなの女性への転身期に行われる通過儀礼であり、本来は各家で行われたものであった。代表的な儀礼に「鉄漿(かね)付け」といって、お歯黒(はぐろ)をするものがある。身体装飾的な変化によって結婚できる女性になったことを披露する意味があったと考えられている。
 ただ、こうした儀礼は、明治期になると徐々に行われなくなり、第2次大戦後の民俗調査では聞き取ることもできなくなった。しかし、1883(明治16)年にまとめられた『各郡習俗慣例取調書』の項目には「男子元服女子歯染髪直等ノ習俗慣例」があり、郡レベルであるが、県内で行われていた各地域での特徴を知ることができる。
 それによれば、成女式の主要素は、やはりお歯黒であり、「歯染め」「付け初(ぞ)め」「染め初め」「初鉄漿」「初黒歯」「十七歯染」「七色鉄漿」「七つ鉄漿」といった様々な呼び方があったことが分かる。十七歯染とは儀式を行う年齢にちなみ、七色鉄漿・七つ鉄漿とは歯を染める「鉄漿」を近隣7軒から少量ずつもらい受ける風習にちなむ。この風習は県内広く分布していた。これを鈴鹿郡では七所鉄漿といった。
 実際に歯を染める時期は、大まかに言えば、伊賀地方を除く一志郡以北が年齢(17〜19歳)を基準にし、伊賀地方と飯高・飯野郡以南が婚約・結婚を基準にしている。また、伊賀地方・朝明郡から安濃郡、志摩地方まで県の中央の広い範囲で、実際に歯を染めないものの、13、14歳でお歯黒を真似た儀礼をする地域が分布していた。中でも、阿拝・山田郡は7歳で行うとあり、古式を強く伝承したものと考えられる。
 本来は幼少期や13歳頃に行われたものが、やがて17〜19歳で行われるようになり、さらに、それが女性の婚期と重なることで次第に婚姻儀礼と融合したのであろうが、三重県内には、それぞれの段階のものが確認されたのである。
 また、お歯黒には親族の人望ある婦人に鉄漿付け親(阿拝・山田郡)・鉄漿親(答志・英虞郡)・筆親(鈴鹿、飯高・飯野郡)を依頼し、歯を染めてもらうことがあった。この親とは仮の親子関係を結び、長きにわたって付き合う風習があったと考えられるが、同史料にはそうした記載がなく残念である。
 この仮の親子の風習は、お歯黒の風習が消滅した現在も形を変えて継承されていることは御存知だろうか。鳥羽市浦村町(本浦・今浦地区)では、女性が19歳の厄年を迎えたとき仮の親子関係を結ぶという。親をカネオヤ、子をカネツケゴといい、この親子関係はカネオヤが死亡するまで続く。
親子関係を結ぶ儀礼は、11月中に親となる親族の女性の自宅や旅館で行われ、このとき実の親は招かれない。儀式当日、カネオヤからカネツケゴに帯や口紅・歯ブラシ・扇子・麻の緒(へその緒を切るときに使用)・半紙が贈られるが、歯ブラシはお歯黒筆の名残であろう。その後、カネツケゴは毎年正月にマスノソコ(枡形の餅)やミカン・魚・衣類などをカネオヤに届け、1月15日にはカネオヤはカネツケコに餅をついて持っていく。カネツケゴの婚礼には布団や冷蔵庫など、出産には腹帯などが贈られ、カネツケゴはカネオヤ側の冠婚葬祭には率先して手伝いに行くという。特にオヤの葬儀には、棺のゼンヅナ(銭綱=棺を引く晒し木綿製の綱で銭が結んである)持ちや水持ちをする。
 カネオヤ・カネツケゴという言葉は、お歯黒儀式の中の原義は失われたが、厄年の儀礼と結び付いて、そこで結ばれる親子関係を指す呼称として残ったのである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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