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視覚障害の子供を支援―慈善公徳会の設立と会誌「救乃友」


写真 「救乃友」改第1号(重盛家所蔵資料から)

写真 「救乃友」改第1号(重盛家所蔵資料から)


 県史編さんグループでは、昨年から菰野町で重盛(しげもり)家所蔵資料の調査を行っている。江戸末期の菰野藩の庄屋関係文書のほか、明治〜大正期に県会議員や国会議員を務めた重盛信近関係資料が残されている。その資料の中から1917(大正6)年に発行された「救乃(すくいの)友(とも)」改第1号が見つかった。「救乃友」は、視覚障害者の救済を目的として設立された慈善公徳会が発行した会誌である。慈善公徳会の事務所は津市内に置かれ、会主の小林捨松が発行兼編集者で月1回発行された。これまで、県史編さん室には同会誌の第11号と第30号があったが、今回の調査で創刊号が出てきた。そこで、この慈善公徳会を中心に大正期の視覚障害児への社会事業について見てみたい。
 会誌に掲載された組織沿革によると、小林は1900(明治33)年から津市において三重慈善会を立ち上げて慈善事業を開始するが、02年に関西慈恵院の設立を主唱し、同院を宇治山田町(現伊勢市)に設置している。さらに、09年に岐阜県愛隣救済院と合同する。しかし、地方の慈善事業家の中には事業の真髄を誤解している向きもあり痛恨の思いがあるとして、17年に「自己理想の指導により、一意専心を以て多年の宿望を遂げる」として慈善公徳会を新しく設置した。第1号には「改」という文字が付けられているのは、そのためであるが、それ以前にも会誌があったのか、どんな名称であったのか、今のところ見つかっていないのでわからない。
 この第1号の冒頭では、発刊の目的を「救済児童教養資金」を得るためとしている。慈善公徳会が救済しようとしたのは、満4歳以上16歳未満の貧困家庭や保護者のいない視覚障害児であり、点字学や按摩術を教授し、自活の道を得ようとさせると記されている。この会誌は旧来の本会員及び新加入の会員に配布され、会員・会誌購読会員以外からは一切寄付金を要求しないとあり、会費と会誌購読費のみで会が運営されていたことになる。社会奉仕のために事業を行うとした小林の思いがあるのであろう。
 18年の第11号では、発行目的や救済すべき対象に変化はないが、25年の第30号では三重公徳会に名称が変更され、事業の内容も災害の被災者及び薄命者への救済、模範となる善行者の賞賛と変わっている。また、年間購読費も当初の1円から3円に上がっている。巻末には感謝状があり、そこには創立以来、特に尽力のあった60名余の会員の名が載っている。その中に熊澤一衛の名があった。
 25年に発行された「三重県社会事業概要」によると、10年に三重県師範学校附属小学校盲生学級が設置され、19年に三重県慈善協会所属の三重盲唖院として津市青谷の地に分離した。その後、私立三重盲唖院と名称変更したが、入学者の増加もあり、校舎新築計画が持ち上がり、津市乙部(おとべ)に敷地を購入し、新築校舎が建てられ23年に移転している。この新校舎を寄付したのも熊澤一衛とある。私立三重盲唖院は25年に県立に移管された。
 熊澤は、四日市の実業家であり、四日市製紙(富士製紙との合併を経て現在は王子製紙)の重役を務め、やがて四日市銀行(現三重銀行)頭取や伊勢電気鉄道(現近鉄名古屋線の一部)の社長となった人物である。「救乃友」を所蔵していた重盛信近も、同じく四日市製紙の重役の一人であり、熊沢とは親交があった。
 県立盲学校に長年勤務し、三重県視覚障害者協会でも活躍した方に聞いたところ、熊沢一衛の名はすぐに返ってきたが、慈善公徳会については初めて聞くとのことであった。  
 なお、この慈善公徳会や三重公徳会がいつ頃まで続いたのか詳しい資料は見つかっていない。今後の資料発見を待ちたい。

(県史編さんグループ 服部久士)

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