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人と物の往来、昔も今も―雑木林の中に残る旧長野隧道


雑木林の中に残る旧隧道坑門(伊勢側)

雑木林の中に残る旧隧道坑門(伊勢側)


 主要地方道津上野線(2003【平成5】年から国道163号線に昇格)は、津と上野を最短で結ぶ重要な道路で、江戸時代の伊賀街道をほぼ踏襲している。この道は、もともと「伊賀越え奈良みち」と称されたように、古来から大和と伊勢を結ぶ重要なルートの一つで、奈良方面からは、島ヶ原(現伊賀市)から上野を通り、長野峠を越え、五百野(現津市美里町)から久居(現津市)を経て、月本(現松阪市中林)で伊勢街道(参宮道)に合流するものであった。江戸時代になって、藤堂高虎が津に転封し、上野を支城としたため、五百野から分岐して津までのルートを改修し、津と上野を結ぶ藩の重要な道路として整備したものが伊賀街道である。以来、伊勢側に片田、長野、伊賀側に上阿波(後に平松)、平田に宿が整備され、伊勢と伊賀を結ぶ人や物の往来は大幅に増え、津と上野は商都としても大いに発展した。
  しかし、この街道の一番のネックは急峻な長野峠であった。明治時代に入り、物資の運搬が盛んとなって隧道開鑿の機運が盛り上がり、1880(明治13)年11月、峠の下方約40間のところでトンネル掘削に着手、難工事の末、85年6月に竣工した。長さ120間、幅2間半、総工費10万5千776円92銭であったという。この間の事情は、「大山田村史」下巻にも所収されている87年9月の「上阿波村地誌取調書」に詳しく述べられている。隧道の完成により、物資の交流は格段に便利となった。しかし、時代の進展とともに新道の要望が高まり、隧道から約15b下に新しいトンネルを掘削することになった。1939(昭和14)年3月、長さ約300b、幅約6bの新トンネルが竣工した。これが現在の長野トンネルである。前年の38年6月24日付けの新聞には写真入りで特集が組まれ「おお開通したゾ 伊勢、伊賀国境長野峠」の大見出しで坑道が貫通したことを報道している。自動車時代に対応する新トンネルが完成したことにより、伊勢と関西方面の物流は一段と盛んになった。一方、旧隧道は廃道となり、いつしか人々の記憶から消え去ってしまった。
  今、現長野トンネルの両側には小公園ができ、ドライバーたちの一時の憩いの場となっている。伊賀側の公園には旧隧道の道路開鑿記念碑が移築され、伊勢側の公園には旧隧道の東西坑門上に掲げられた石額が置かれている。伊賀側に掲げられた石額には着工時の三重県令岩村定高の書による「其功以裕」、伊勢側に掲げられた石額には竣工時の三重県令内海忠勝の書による「補造化」の語が刻まれている。伊勢側から公園の脇の雑木林をよじ登って草叢を掻き分けて進むと、旧隧道の坑門がひっそりとたたずんでいる。高さ約3・6b、路面幅約4・5b、楔形に加工した花崗岩をアーチ状に組み、重厚に門を飾っている。10bほど奥からは崩れて先に進めないが、側壁や天井部にも石組みが見え、明治前期の石造建築物の技術の一端をうかがうことができる。伊賀側も同様に近くまで行けるが、坑門はほとんど埋もれており、アーチ部分がわずかに見える程度である。
  現長野トンネルは65年の大改修をはじめ何度か改修をしているが、峠付近は屈曲箇所も多く、狭隘な道路幅や降雨・降雪規制などもあり、交通量の増大に対応が困難になってきた。そこで、2005年度からは一般国道163号線長野峠バイパス建設事業が開始され、現在、伊勢側の犬塚付近から伊賀側の猿簑塚付近まで約2,000bのトンネルを掘削中である。08年度に完成予定となっており、周辺道路の整備も進めば、関西圏との経済や文化の交流がさらに高まることであろう。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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