トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 近世に古来の流れ継承―文書から見る伊勢神宮領

近世に古来の流れ継承―文書から見る伊勢神宮領


「土地売買証文(部分)」(一宇田町有文書)

「土地売買証文(部分)」(一宇田町有文書)


 近年、県史編さんグループでは、伊勢市史編さん係と合同で、かつて伊勢神宮領であった伊勢市四郷地区の文書調査を行っている。2003(平成15)年度には、一部成果を『一宇田町有文書調査報告書』として公刊した。その調査の中で、他の藩領では見られない土地に関する証文が多数あり、その様式や記述方法が随分気になった。すなわち、大名領では、中世・戦国期とは土地証文様式が大きく異なっているのが普通であるが、神宮領ではその様式が江戸時代へ継承されている点である。
  『三重県史』資料編中世1(下)に収録されている「輯古帳」には、土地に関する証文も含まれており、その証文を見ると、土地の位置を特定するために「小字」及び「東ハ何処(どこ)、南ハ何処、西ハ何処、北ハ何処」というような東西南北をあらわす「四至(しいし)」が記されている。また、土地生産量等の指標として、「何斗代何升蒔」というような表記がなされている。こうした表記は、中世・戦国期には神宮領以外でも見られ、中世・戦国期の特色であった。しかし、江戸時代になると、県内の伊勢神宮領以外では、このような表記は見られなくなり、いわゆる石高表示となる。
  それは、豊臣政権によって実施された1594(文禄3)年の検地と関係がある。この検地は、「文禄検地」あるいは「太閤検地」と言われるが、これによって、石高制(米で土地の評価をする)が導入され、土地の特定には、「小字何処」、「上田(じょうでん)何石」というような記述となり、証文様式も変化したのである。いわゆる、中世・戦国期と江戸時代との間に土地証文の様式に大きな変化が見られるのである。
ところが、神宮領のうち宮川より内側の四郷地区や山田・宇治・大湊地区においては、検地が実施されなかったために、中世期の様式の表記が江戸時代になってもそのまま継続していったのである。
  ただ、実際に文禄検地は免除されたものの、在地では検地に備えて「指出帳」を用意していたようである。一宇田村でも10月13日付けの「指出帳控」が残されており、『三重県史』資料編中世2に掲載している。
  なお、神宮領でも、元々鳥羽藩であった荘・三津村など二見地域(現伊勢市)では、石高表示に基づく表記となっている。これは、文禄検地が実施された後に神宮領となったため、石高表示となったのである。
  さて、土地売買証文をもとに、神宮領の中世との連続性について触れたが、それ以外にも、その特質は見出せる。たとえば、村の運営に関しても、神宮領では中世からの系譜を引く村役人合議による運営体制が見られるし、支配者機構(会合)そのものも他地域とは大いに異なり、中世・戦国期的な要素をもったものとなっている。
  しかし、だからといって、神宮領そのものが中世・戦国期のままであったのかというと、そうではない。近世的なものの例として、江戸時代前期より実施された「宗門改」が見られる。「宗門改」は、キリシタン禁止だけでなく、戸口の基礎台帳ともなる重要な方策であった。江戸時代に神宮領が山田奉行支配の幕府領となったことで、1643(寛永20)年には「宗門改」が実施されている。この時期に他藩領では宗門改が実施されたような形跡は見られず、非常に早く実施されていたことは驚きである。それに関する数々の文書を見出すこともできた。
  また、他地域では、大名の支配機構に形成により、その多くが非常に類似した仕組みとなるが、神宮領では支配者の交代がなかったために、中世・戦国期の機構や仕組みを残したまま江戸時代になった。そして、当時の社会状況の影響を受けながら近世的なものに変化していったという点が神宮領の特色であると言える。しかし、未解明部分も多々あり、今後も継続して調査研究を進めていきたいと考えている。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る