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「幻」再発見される例も―三重県の中世文書残存事情


長野信良書状

長野信良書状


 未だ各家の蔵などにも膨大に眠っているであろう近世以降の文書に比べ、中世以前にさかのぼる古文書は絶対数が少なく、寺院が多く集中する京都や奈良を除くと、新たな中世文書が発見されることは、むしろ希なことである。さらに、多くの災害や戦災等によって、それまで知られてきた古文書が失われてしまった例も、決して少なくない。
明治以降、現在の東京大学史料編纂所が全国の古文書を調査して作成した「影(えい)写本(しゃぼん)」が、同編纂所に架蔵されている。影写とは、薄い紙に古文書を忠実に写し取るもので、複写機のない時代においては、古文書の形態までも記録するための方法として使われてきた。その中には、現在はもう失われてしまった文書の記録もあり、その文書を知る唯一の手掛かりとなっている。『三重県史』でも、県内文書を集めた「資料編中世2」の編さんに際して、この影写本の恩恵に与っている。しかし、本県の場合、「今は失われた」などとされてきた古文書が、地道な調査によって再発見されることがある。
影写本にある『松葉安平氏所蔵文書』は、戦国時代を中心とした伊勢山田に関わる約200点にも及ぶ文書群である。世(せ)義寺(ぎでら)の別院であった常智院(じょうちいん)や覚弘院(かくこういん)による土地売券が主で、山田の座関係の文書も含まれ、中世の山田を知る上で貴重な資料となっているが、従来から戦災により焼失したとされてきた。しかし、そのほとんど全部が、実は神宮文庫に保管されていた。それを確認したのは、当時皇學館大学院生の窪寺恭秀氏で、今から数年前のことである。
また、同じく伊勢山田に関わる『法住院文書』も、長らく1939(昭和14)年に調査された影写本でのみ知られてきたが、近年の県史編さんグループと伊勢市史編さん係による合同調査で再発見され、戦国時代から近世・近代にかけての約330点にも及ぶ文書群の全容が明らかとなった。
江戸時代の段階で、既に所在不明となった古文書が、突然発見されることもある。2005(平成17)年に古美術商から売りに出された1084(応徳元)年の畠地売券は、現在、国立公文書館内閣文庫が所蔵する伊勢市吹上の光明寺に伝来した文書群『光明寺古文書』に含まれるべき一通で、近世末に同文書を整理した神宮神官で国学者の足代弘訓(あじろひろのり)の写しのみが知られてきた。幸い、本文書は皇學館大学の所蔵となり、百数十年ぶりで伊勢の地に帰ってきたことになる。
このように、言わば「再発見」される文書以外にも、本県の場合、それまで全く知られてこなかった中世文書が新たに発見されることも、意外に多いのである。
同じ2005年、県史編さんグループは数十通の『分部(わけべ)文書』を入手した。分部家は、中世安濃郡の領主長野氏の被官で、津市河芸町上野を本拠とした。後には近江国(滋賀県)に移り、近世期を通じて大溝藩として存続した家である。分部家の文書群の中心は、大溝藩のあった滋賀県高島町に残されているが、入手した文書は、恐らく早くに流出したものの一部と考えられる。
写真は、その中の1通で、日付の下に署判を据えているのは、織田信長の舎弟で、1568(永禄11)年に長野家の家督を継いだ長野上野介信良(ながのこうずけのすけのぶよし)、後の織田信包(のぶかね)である。内容は、年号がなく不明な点も多いが、駒田某の反乱鎮圧に関するもので、信良自身、来る14日には出陣する旨を伝えている。
信良(信包)の長野氏時代の発給文書は、ほとんどなく、従来、高島町分部宝物保存会所蔵『分部文書』中の1569年付け文書のほかは、『津市史』に所収された1517(元亀2)年付けの文書が知られるだけである。しかも、この文書は、現在所在不明となっている。
県内の中世文書を収集した「資料編中世2」は既に完成しているが、その後もこうした新出文書の発見が相次いでおり、補遺の編さんも検討せざるを得ない状況である。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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