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椎茸よりも安かった松茸−人工栽培も70年前に挑戦


三重県の松茸生産高

三重県の松茸生産高


 秋の味覚と言えば、「松茸」を思い浮かべる人が多いだろう。10月に入ると、国産松茸も市場に出る。ただ、外国産の松茸はともかく、国産の松茸は値段が高く、そうたやすく口に入らないのが実情であろう。
 ところが、先日、1914(大正3)年発行の『三重県林業要覧』の中から松茸の値段が椎茸に比べて随分安いというデータを発見し、いささか驚いた。それは椎茸と松茸の県内生産量と価額で、1911(明治44)年の数値は「椎茸四九、一〇一斤 三八、三〇八円、松茸二二一、七四八斤、二〇、三九一円」と見られる。これを1s単価に換算すると、椎茸1円30銭に対して松茸はわずか15銭で10分の1程度である。当時は椎茸栽培が技術的に未熟で椎茸の生産が少なく、高価であったのだろうが、それにしても松茸の価額が非常に安い。ちなみに、この年の三重県平均の米価が1俵(60s)あたり6円72銭で、米1升(1・5s)よりも松茸1sの方が低価であった。
 国産の松茸1sが数万円もする現在では、とうてい考えられないことかもしれないが、第2次世界大戦前には三重県各地で松茸がとれた。特に伊賀地域で多く、古い時代の記録もある。江戸時代の津藩の歴史書『宗国史』には、慶安元(1648)年の「伊賀山々松茸覚」という文書が記載されており、それによれば、この年に伊賀の山々で採集した松茸は「五万三千六百九拾七本」に及び、うち約28、500本の松茸は津の城に運上され、さらに伊賀付きの侍衆にも遣わされたあと、13、000本ほどが津や伊賀上野の町で売り払われたという。これらの松茸は、阿拝郡の石川村・槇山村・丸柱村(現伊賀市、旧阿山町)の伊賀北部の村々からの採集が大半を占めていた。
 また、1910年前後に話を戻すが、やはり伊賀北部の鞆田村(現伊賀市、旧阿山町)では、この頃1戸あたりの松茸の消費量が年間「五百匁」とあり(『鞆田村々是(そんぜ)』)、換算すると1・875sで、大きさにもよるが、30本近い松茸を家族で食していたのである。
 一方、伊賀南部の名張市赤目や青蓮寺地区も松茸がとれる地域として著名で、1911年の『三重県統計書』では伊賀北部の阿山郡の生産高約48トンに対して伊賀南部の名賀郡でも約31トンもの生産高があった。
次に生産高が多いのが、伊勢地方の度会郡が約19トンで、伊勢の地でも松茸はとれた。1907年に津市で開催された第9回関西府県聯合共進会の際に出版された『三重県案内』を見ると、桑名郡大山田村(現桑名市)の播磨山が「松茸狩」で有名であるとし、林間で酒を暖めて香ばしい松茸を焼く人が多いと写真を添えて記述している。
 それに、時代は下るものの、1934(昭和9)年11月の『伊勢新聞』には、一志郡中川村天花寺地区(現松阪市、旧嬉野町)で松茸の人工栽培を試み、100ha以上の山林に播種したという記事が見られる。松茸の人工栽培は今も大きな課題であるが、既に70年も前の三重県でそんな挑戦があったとは、これも驚きである。
 さらに、この天花寺地区では、第2次大戦後の1955年になっても「例年山林約百町歩に松タケが生える」ため、「町で管理して行楽客の誘致」を図ろうという計画を立てたらしい。戦前の播種の効果があったのか、その後この誘致策がどの程度実施されたかは、資料もなく、わからないが、50年前には近鉄中川駅に近い身近な山林で松茸が多数あがった。
 しかし、高度経済成長期の家庭燃料の変化に伴って山林の清掃や手入れが行われず、また松喰い虫の発生などによって松茸が徐々にとれなくなり、1981年の三重県松茸生産高は1911年の4%以下にまで下落した。最近では更に減少し、国産松茸は一般庶民からは遠い存在となってしまったようである。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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